開けた冷凍室から漏れ出る白い冷気から取り出すと、彼女は神聖ささえ覚えた。跪いて掲げてみると、なかなか高貴にも思える。駅前で購入したワンホール千円にも満たないレアチーズケーキは、未踏の雪原の白さとでも言ってしまおうか。それにしたって無垢な面持ちのようで、店頭で並べられているときは媚びて誰にでもねだる愛想を見せていたのに、こうして家へ持ち帰ってただひとつと見つめていると、恥じらいさえも無い、まっさらな感じがある。これから食べられてしまうことを思うと、浅はかな無知の末路、果ては愛らしさとまで言ってしまっていいのでは無いだろうか。たかだか一皿の白を見ただけで、彼女はすべてを憂いてみる。ちょっと楽しい。
「冷凍庫、閉めたら」
 あふれ出る薄い白煙で足下をあやふやにしながら、その男が言った。
「食べるの?」
 うん、と彼女は答えて、両手で持ったまま、冷気を閉じ込めた。
「ああ。ヨーグルト用のブルーベリーソース、ストックしてただろ。掛けたら」
 彼女はその言葉にハッとして立ち上がり、冷蔵庫に手を掛けた。ヨーグルトの横にしだれかかるチューブタイプのソースをぐしゃりとひっ掴んだ。
「いざやさんも食べます?」
「うん、ソースはいらないかな」
「用意しますね」
 華美な食器などはないから、シンプルな皿に乗せられれば、存在感が全くなくなる。ただ突き刺すフォークの銀ばかりが目立って、陵辱の痕跡さえ見にくく、土台のタルトの淡いきつね色だけが、踏みしめた足跡ほどの些細ばかりを残して、なにもなくなっていく。
 ふんわりと香り始めたコーヒーは意外にもインスタント。痩身の男は、外見に反してずぼらな面を見せる。コーヒーメーカーはほこりをかぶっていない。男の手元ではなく、そちらばかりを見つめてしまう。コーヒー豆が、半ばより少なくしているのを、半透明の装置が露わにしていた。
「スティックシュガー二本?」
 伺い立てるように容を向け、耐えきれなくなるのは彼女ばかり。喉が上下し、呼吸を正常としてから、ようやく答える。
「それと、ミルクもまぜてほしいです」
 ん、と喉が鳴っただけの返事、その声の低さ。
 それぞれ互いの皿を運んで、食卓についた。椅子について目線が近くなると、怜悧なひとみに晒されて、急に、食欲がとって代えられる。
 衝動、と呼ぶよりずっと深く根ざしている。欲を冠するよりはもっと恣意的で、逃れられない絶対的生物の呼吸。
 食べないの。そう訊ねられるまで、つよくフォークを握りしめたままだった。


 呼吸を呼吸として許され、認められるのは、陽が溶け、月光が傾き、朝を待つ夜だった。泥のように濃いコーヒーやアルギニンの含まれた清涼飲料水などは口臭や身体から分泌される体液に影響するために頼ることは出来ず、ただただ根気を労してうとうととしながら、深夜こそ活性化していたネットの海からようやく引き上げる男を迎えたのだった。
 男も眠るのだ、と彼女は不思議に思っていた。どうしても人間性の見えない人間で、何もかも見据えている発言をしながら、寄り添う様は自然で、徒に人の心を砕くところまでまるで人間性を抱かせなかった。神でも悪魔でも天使でも、何にでもなれるのに、何とでも呼ばれるのに、人間だと指して語ろう人間などは、少なくとも彼女は知らなかった。男を来訪する少年少女を、隣室にて息を潜め、壁に耳を当て、その様子をつぶさに観察したが、彼らは自分の浅はかな欲望をねだり、請うばかりで、男――折原臨也の本質的な部分に迫るでも無く、彼らは彼らを煽てられてこの部屋の酸素を吸って、帰って行く。結局男を真に満足させられることなどはなかった。
 パソコンを閉じて、すこしだけ男は憂鬱そうな顔をする。シャットダウンボタンを押して、完全に切れるまで数秒あるタイムラグを見届けているだけなのかも知れないが、彼女はその無防備な男の顔を見るのが好きだった。あの瞬間なら、キスをして気付かれずに舌まで舐められるかも知れない、と無防備の顔を見るたびにおもう。やったことはないけれど。だって立ち上がる隙も無くて、あまりにも短い刹那。そのあとで、男は瞼を閉じて何かから切り替わると、視線を彼女に遣って笑む。
「今日は起きていられたね」
 まるでご褒美のように言う。あながち間違えでも無いから、彼女は男を迎え入れたときに、背中をばしばしと叩くくらいしか出来なかった。いつまでも男は、それを催促と勘違いしているのだが、あの神のごとき男の誤りを得られたことと、単純に快楽を与えられることで彼女の真に求める大凡が満たされるので、反論しないでいた。それさえも見破られているのだろうな、という答えは、高くなった陽を肌に浴びて、ようやく思い至るのであった。


 果たして折原臨也という男は、他人を騙すのが上手かった。彼女は折原臨也にとって自分が他人であることを十分に理解し、排他的にされていることもまた弁えていた。
 そうしなければ、愚かしくも手を重ねることさえ叶わなくなるだろう打算もあり、実際に男をまるごと愛せていたかと自己に問うと、意志の強かった目は逸らした。男の傍は心地が良かった。過干渉過ぎず、自立し、他人から崇められ、ときには蔑まれつつも男はそれも愛し、見栄えがほとほと良く、すっきりとした話し方と声をして、すべてにおいて具合が良かった。その完璧さに身勝手なまま不機嫌になったり、少年少女たちに差し伸べる手のひらにさえ嫉妬してしまうことも勿論無いとは言い切れないのだが、概ね、彼女は折原臨也の傍に存在することで、上手い生き方をしているような気にさせられていた。
 そうした重力の無い生活は、何からも縛られず、折原臨也さえ重しとして引き留めることが無く、水面に腹を見せる金魚のように、宙に浮かせたままだった。気ままや自堕落と言ってしまえばそれまでだが、彼女は、高い天井の白を見つめているときなど、深くものごとを考えてしまう。この生活はいつまでも続くという保証は折原臨也から為されており、これは偽証では無い、たとえ他人を騙すのが上手かろう男だとしても、そうした嘘を吐いてまで彼女を、みょうじなまえという存在こそを、部屋に放した風船のように扱うだけでいられることは、なかなか難しいだろうと思われた。男は嘘を吐く必要が無いために、本心で彼女を生活の中に招き入れ、許したのだった。ここに必然も奇跡も、運命もなかった、在るのは彼女の執念であり、男の博愛という信念であった。それらは全て、それ以外も全てと混ざり合い、折原臨也の人間への執着へとつながっていく。
 個体を持たない人間という総称への愛こそが、それは動かすことの出来ない、折原臨也そのものだった。この部屋で折原臨也に愛されると言うことは、人間の代わりとして、むりやりに個体として擬人化させたような、絶対的に持たれる人格を全く無視した、悪し様に言えば実験のようだった。彼女は折原臨也という男に、「恋愛」とその効果を、身を以て知らせる役割を担っていた。それでしか、彼女は折原臨也という男を振り向かせられなどしないだろう、と天啓のように確信していた。
 瓦解する発端となったのは、それでも彼女の無意識だった。男はいたって平穏に彼女を受け入れていたし、噛み締めて受け入れようと努力し、細長い足を折り曲げて彼女に傅き、存在をたしかに認め、やわらかな受容がそこにあった。彼女は、そのような折原臨也の努力を知っていた。一部の隙も無く愛を与えられて、ただ一人の人間として認められたかった、彼女の渇いた承認欲求は泉ほど満たされて、唇から始まる身体の絡み合いまでを終えて、折原臨也という男には、その先が無かった。彼女が、折原臨也という男とこの先を、何か、輝かしいものがあると、どうしても思えなかった。彼女が求めなければ、男は何もしないでいた。彼らの間を「恋愛」と名付けたのは、彼女が芯でいる限りであり、彼女が男を見放せば、折原臨也はそこに留まる理由を持たなかった。いくら折原臨也が終焉までを保証しようと、彼女が望まなければ、男もまた望めないのは明白だった。
 折原臨也にすり寄っていく人間は、途にさびしいものばかりなのだろう、と彼女はわざと哀れんでみる。それは彼女自身でもあり、それは慰められるべきであり、ひとりの人間を神と都合良く名付けられ人間の尊重されるべき権限をすべて剥奪したことを侮蔑されるべきだった。神にたかり、二本の足を放棄したことを、神の足にすがり、縛り付けたことを悔恨すべきだった。
 折原臨也が他人の、人間の感情に空いた穴にぴたりと嵌まるのは、男にとって変容が容易だからであり、なぜなら折原臨也は彼女らを含めた周囲に集まる人間の、だれよりも大きな空虚を抱えて、その手懐け方も心得ていたからに過ぎない。何せ折原臨也は、ずっとずっと、ひとりだったからだ。
 彼女はかいぶつみたいに大きな、得体の知れないものに惹かれたのは確かだったが、それを抱えきる覚悟は一切無かった。加えて、かすかな希望の内で、それを変貌させられやしないかと、行動に示さないまま見つめていたがそんな都合の良いことは起きず、だから、それが男の中で呼吸をしているということを理解し、折原臨也を理解しきれないと言うことを理解し、それはつまり、彼女が、折原臨也という特異に飽きたのだった。
 元々純粋に男から向けられた愛では無いから、きっと彼女が忘れたと同時に男も衣を落としていくように、振り返ることも無く次の誰かへと行くのだろう。彼女でさえ、誰かを継いだのは想像に易い。だって折原臨也にはすべての女に対する事象に戸惑いが無かった。
 ただ、さいごにひとつ痕を残したい。なめらかな肌に、とりわけ誰もが見つめられるその顔に、このフォークでも突き立ててやろうかと思う。彼女は彼女が神に、男にすがったように、折原臨也に追いかけられたかった。それが叶わないと知っていたからこそ、彼女は彼女がいなくなってからも思い出されるように、わかりやすい傷を負わせたかった。彼女はフォークを握りしめる。


 大きく取り過ぎたチーズケーキが、男のくちびるの端に残る。片手にスマートフォン、片手にフォークを残したままで、べろりと舌がそれを拭った。渇いたくちびるに、舌の這った痕がぬらぬらと主張していた。明るい中でキスでもした後のような昏いかがやきだった。
 口を開かなければ、男は男でしか無かった。だがひとたび皮を剥いた、内側に潜むのは飽くなき人間への探求であり、あふれでるのは無垢な愛だった。
 銀のフォークを見る。これが例え男を突き刺すに成功したところで、確かに数日痕を残せよう。だが、男を折原臨也として理解していたことや、彼女が折原臨也に感じていた憐憫をふくめた愛おしさや、ただの人間ただの男として取り扱った夜の享楽だとか、男が彼女に誓い、彼女が男を敬愛しどこより人心地つけたという、存在した事実が全て、たった一刺ししただけの小さな三つの傷口によって台無しになり、振り上げた腕とその狂気にとって変わり、穏やかであろうとした彼女が、彼女であったすべてが、その傷口に収束してしまうだろうと気付く。


「たべないの」
 折原臨也の目は、いつだってやさしい。激情を持たない瞳をしていた。
 彼女は力の抜けた手からフォークを取り落とす。唯一、折原臨也の芯を突き刺せたかも知れない武器を取り落とした。やり遂げる前に、彼女は諦めた。彼女は彼女を満足させる由は十全とあるが、折原臨也を満足させる理由など一切持たなかった。だって、と彼女はにわかな笑みを浮かべる。彼はどうせわたしでは満足しないのだから、彼は誰かで満足してはならないのだから。
 からん、とかん高い音。男は床を傷つける音に不快な顔をした。しばし彼女が動かないところを見て不審そうに、どうかした、とコーヒーの波紋を見ながら言った。
 そう聞かれてしまったので、心中を隠すことなど出来なかった。どうかしてしまったのだと、彼女は置き土産のように、降り積もっていた男への鬱屈をつまびらかにした。人間を理解しようとしている折原臨也への身を切った献上でもあったから、一概に悪意では無い。
「いざやさんは結局、わたしとどこへデートしたり、食事に行ったり、なにかを協力しようなんて言い出さなかったし、わたしがいなくたって生きていけるから」
 言葉を間違え、つかえながら、できるだけ真摯に告白する。男は黙って聞いていた。彼女が出し尽くしたと見える呼吸をしたところで、そう、とだけ頷いた。彼女はひとさじばかり、やはりこの執着を手放してはならなかったのだ、と思った。この男に抱かれることはないだろう、と身体が勝手にさみしがった。頭では清々しているのに、感情はさざ波立ち、指先は震えていた。
 言いたいことはわかった、と男はカップをソーサーに返して再び口に出した。
「でもね」
 男は完璧な笑みで、彼女を見た。
「君も結局、俺とどこへデートしたり、食事に行ったり、なにかを協力しようなんて言い出さなかったし、俺がいなくなったって生きていけるだろう?」
 瞬きに伏せた男の瞼に、彼女は背筋が冷え、まるであり得ないはずの怯えが駆け巡った。
「君が望んだから俺が動いたんじゃ無い。俺が望んだから、君と暮らしていたんだけれど、君と手を重ねていたんだけれど。そうだね、きっと伝わらなかったんだろう」
 お互いに、と男は台詞に反して穏やかに言った。
 彼女は呆然とその穏やかさを見た。それは明らかに諦めだった。
「君が望まないことはしないように気をつけていたけれど、君が、ただ傍にいられるだけでいいなんて、そんな風に言ったのを、もっと問い詰めておけば良かったのかな」
 男は手を伸ばし、彼女の手のつけていないケーキをすくった。皿とぶつかる、かつり、強い指先の伝わる音が、彼女をびくりと震わせた。怒気ではないだろう、もっとずっと煮詰められ、かたまった、折原臨也から離れた彼女が今後一生持つことの無い抱えきれない感情だった。
 白い欠片を向けられ、その奥にはフォークが潜んでいる。彼女は、ごくりと喉を鳴らした。
「俺、だれにも信じてもらえないんだよね」
 まるで降りかかろうとする呪いを避けるように、彼女は椅子を倒して立ち上がった。こわばった身体は動かせなかった。逃げ出したいのに、この罪を自覚したくないのに、足は床に縫い付けられていた。
 こんな巨大な愛に押しつぶされてしまえば、彼女はもう彼女でいられない。
 彼女に向けていたケーキを男は自分の口に運んだ。行儀悪く頬杖をついて、横目で彼女を見る。
「……ごめんなさい」
「これを聞いても、一生俺の恋人になってあげよう、って思わない?」
「……ごめん、なさい」
 ごめんなさい、と彼女は繰り返した。
 きっとそうやって、数多の彼女が、折原臨也を傷つけていったのだと思うと、今ここにいる彼女は、その負債を背に感じて、蒼白になる。
「いいんだよ」気にしないで、と男は言う。「大丈夫」
 折原臨也がことさらに優しくいうから、彼女は涙が出た。折原臨也が決して流せない涙を、折原臨也の前で、まるで優越のように映るだろう涙でも、流れてしまうのを止められなかった。
 愛してあげるなんて、崇めてしまった存在には、どうしたって言えなかった。
「まちがえて、ごめんなさい」
「君が気にすることじゃあない」
 わざと突き放すように言って、男が近づき、腕をとって立ち上がらせた。彼女は泣きじゃくっていた。我が身のかわいさに泣いていたし、それは彼女自身も、男も、わかっていた。この涙をとめなければ、と唇を噛み締めていることさえも、互いは知っていた。
 男は一切の戸惑いも無く、彼女にキスをした。徐々に深くなる口づけに迷いは無かった。一層に彼女は、その塩辛い涙を分泌した。男の甘い舌と混ざる。なぜか苦かった。苦しくなる呼吸を見切ったように、唇が離れた。不明瞭な目の前を拭われる。開けた視界にうつる男のうつくしさは、悲壮な表情をさらに際立たせていた。きっとこれ以上の愛は無いのだろう、彼女は痛め付けるようにつよく、身に刻んだ。
 男は彼女の震える身体を抱きしめた。呪われている愛で潰してしまえるだろうに、何も言わなかった。ただ温かい腕の中へ、いつでもほどける拘束に閉じ込める。逃がす余地があった。
 伺い立てるように容を向け、耐えきれなくなるのは彼女ばかり。喉が上下し、呼吸を正常としてから、ようやく答える。
「もっと、すきです、って言えば良かった」
 ん、と喉が鳴っただけの返事、その声の低さ。
「でも、きっと伝わらないんだよ」
 彼女の身体を抱えながら、自分をも慰めるように、折原臨也はさいごに囁いた。



Ash.