「御幸くん、かわいそう」

 御幸一也は可哀想な人だと、誰かがぽつりと呟いたのが耳に入った。
 その一言は、凪いた水面に吹いた一筋の冷たい風のようだった。



「御幸くん、お母さんいないんだって」

 中学校の保護者の授業参観の日、隣の席の女子に「御幸くんのご両親はもう来た?」と尋ねられた時に、「うち、母親いないから。父さんは仕事で来ない」と伝えると、それを聞いた女子は驚いたように目を見開いた。
 その様子を見ていた女子の後ろの席の女子が「御幸くん、何て?」と尋ねた時に、彼女は驚きを隠そうとせずに、そう言った。

「え、そうなの?御幸くん、かわいそう」

 彼女たちは無垢ゆえに、彼を可哀想だと認識した。自分たちが甘える存在である、自分たちを愛してくれる存在である母親がいないということを想像し、そんな母親がいない彼はさぞかし寂しく悲しいことなのだろうと、他人事ながらに想像するのである。

 御幸一也の母親は、彼が物心つく前に病で亡くなった。しかし、彼には、不器用で口数も少ないけれど、愛してくれる父親の存在があった。だから、一体自分の何が可哀想なのか、自身では理解できなかった。
 家の棚に立てかけてある写真立ての家族写真に写る母親を見つめて、どんな人だったんだろうと想像することはあっても、それでも、自分が可哀想な人間だと考えたことは一度もなかった。


「…かわいそう?」


 どういう意味かと尋ねようとして鸚鵡返しをすると、クラスメイトの女子たちはっとしたように口元に手をやった。その仕草が不思議で、どうしたのだろうと首をかしげる。すると、彼女はなぜか心配そうな顔をして、身を乗り出すように顔を近づけた。

「それ、大変だね」
「え…?」

 料理も洗濯も、家事は自分がやることが当たり前だから、何が大変なのか理解できず、「なんで、そう思うの?」と尋ね返す。
 本当に、素直な疑問だった。


 すると、目の前のクラスメイトはなぜか、悲しそうに眉を下げて御幸を見つめた。

 その時、ようやく理解をした。
 ああ、自分は、憐れまれているのだと。



 さっきまで穏やかだった水面にさざなみが立つように、心が苛立ち始めるのがわかる。

 こういうことは、今回が初めてのことではなかった。だが慣れるほどの経験もなかった。しかし、何度経験したところで慣れることはなく、何を言われても何も感じなくなるようなことはないだろうとぼんやりと思った。

 御幸が黙っていると、彼女たちは言葉を続けた。

「じゃあ御幸くん、料理もするの?すごいね」
「御幸くん、シニアで野球やってるのに、忙しくない?」
「あ、そうだ。今度応援行かせてよ。お弁当作っていくから」

 その嬉々とした言葉を聞いて、彼女たちはなんて傲慢なのだろうとすら思う。別に、俺は誰にも力になってもらいたいなんて思っていない。勝手に自分の状況を想像して、勝手に申し出られても、必要ない。むしろ、困る。

「ごめん、別にいい」

 あっけらかんとそう言うと、クラスメイトの女子たちはなぜか驚いたように目を見開かせて、呆然と御幸を見つめた。

「…え?…どういう意味?」
「そのままの意味。俺、自分で弁当作れるし、別に、応援も…」

 「応援もいらない」と全てを言い終えようとする前に、彼女たちが顔を歪ませたのが目に映った。普通に思ったことを言っただけなのに、なぜそんな顔をされなければいけないのだろうか。

 参観授業を控えざわざわと騒がしい教室の中で、御幸と女子二人のこの空間だけ、静まり返っていた。

 不服そうな視線で自分を見つめる彼女たちを、御幸は傲慢だと思った。勝手に人のことを可哀想だと想像して、そう呼んで、そう言われた本人がそれを否定すると不満そうにする。出来れば、もう関わりたくないなと思う。クラスメイトだから顔を合わせることは仕方ないが、もうこれ以上、この会話を続けたくはない。

 その時、幸いなことに授業開始のチャイムが鳴って、その会話は終了した。気まずそうに顔を逸らしたクラスメイトを一瞥して、御幸もまた正面を向く。


「…俺は、かわいそうなんかじゃない」



 けれど、心はまだ、波立っていた。






「御幸」


 帰り道、突然後ろから声をかけられて振り向くと、そこには幼馴染のなまえが立っていた。違うクラスのなまえと帰りに一緒になるのは、久しぶりのことだった。
 悪戯っぽくにやっと微笑んだ彼女は、そのまま俺の隣に並ぶと歩き始めた。

「今日、おじさん来た?」
「来てない。仕事だから」
「そっか」

 なまえは何でもないように頷いた。その相槌には、クラスメイトの女子たちのような憐れみはない。

 御幸となまえの家は隣同士のため、以前からお互いの家の事情は知っている。なまえの両親にお世話になったこともあり、小学生のころ、父親の仕事の繁忙期には泊まらせてもらったこともある。

「うちはねぇ、お母さんが来てたんだ」
「へぇ」
「私のクラス英語のスピーチ発表だったからさー、もうほんと嫌で嫌で。御幸のクラスは?」
「国語。教科書読んで感想言うだけ」
「えーいいじゃん」

 ころころと変わる彼女の表情が面白いと思いながら、他愛もない話を続ける。夕暮れ時の赤に滲んだ空を見ながら、クラスメイトの女子たちとの今日の会話を思い出して、帰り道に会ったのがなまえでよかったと心から思った。
 そんな御幸の心情を知ることなく、なまえは話を続ける。それでさ、それでね、それで。次々に出てくる話題は今日の授業参観のことで、彼女の話題の引き出しの多さに感心する。だがそのほとんどはどうでもいいもので、御幸は「ふぅん」と相槌を打つだけ。

 すると、ようやくなまえは御幸が適当に返事をしていることに気づいたようで、眉間に皺を寄せてむっとした顔をした。

「ちょっと、聞いてる?」
「聞いてる、聞いてる」
「絶対聞いてなかったでしょ…」

 けらけらと笑っていると、なまえはなぜかそんな御幸を見て「あ」と声を上げて、手を叩いた。

「そうだ。うちのお母さん、御幸のクラスも見に行ったんだって」
「…は!?」

 何でもないようにそう言ったなまえは、御幸の驚いた表情を見てにやっと笑った。「最初に言おうと思ってたのに、忘れてた」と続けたから、なまえが最初にやにや笑っていたのはこのことかと、思わずかあっと頬が熱くなるのがわかった。俺、今日どんなふうに授業を受けていたっけ。

「御幸くんは真面目に国語の朗読してたわよって言ってたなー。写真も撮ってるから現像して渡すって」
「おばさんが俺まで見に来るなんて聞いてない…!」
「私も私も。後半の15分ぐらいって」
「まじかよ…」

 自分が気づかないうちに、しかもお世話になっているおばさんに見られているなんて、知っていたらちゃんと真面目に授業を受けていたのに。発言するために手をあげることはなくても、背筋は伸ばしてちゃんと先生のほうを向いて。

 なまえはそんな俺を見てくすくすと笑っている。さっきの俺と正反対の立場だ。

 バツが悪くなって歩く速度を速めると、なまえは焦ったようについてくる。後ろから「ごめんごめん」という声が聞こえたけれど、立ち止まって待ってなどやるものか。

「もう、怒らないでよ」
「怒ってない。明日、試合だから早く帰るんだよ」
「え、そうなの?」

 嘘だけれど、本当のようなことを言うと、なまえはすんなりその言葉を信じた。「それなら早く帰ろ!」と走って御幸の隣に再び並んだ。
 その顔を見ると、なぜか嬉しそうだった。不思議に思ってじっと見つめていると、なまえは再び悪戯っぽく微笑んだ。

「明日、お父さんが休日出勤なんだよね。せっかくだし私がお弁当作ろうと思ってるんだけど、御幸も食べる?よかったら食べてよ」

 「そしたら今日早く寝れるでしょ」と続けた彼女の言葉には、今日のクラスメイトのような哀れみや同情、期待の色はなかった。ただ、優しさと、思いやりがあった。それなのに、それは特別なものではなく当たり前のことだと言うかのような声色だった。彼女のことだから、きっと、心の底からそう思っているのだろう。


 夕暮れのオレンジ色の光が、俺となまえの二人を照らす。


 暖かい日の光に包まれた彼女の姿を、ただきれいだと思った。楽しそうな笑みを、ずっと見ていたいと思った。
 そして、あの時に波が立った心の水面が、緩やかに凪いでいくような、そんな気がした。


 そうか。彼女は俺の、ひかりなのか。


 ぼんやりとそんなことを思いながら、その眩しさに目を細めたのだった。


Ash.