※暗夜√



 言葉を選ばずに言うならば、彼女はこの世界に生きていてはいけない女性だった。戦乱の世で癒し手にまわり彼女が救う人間は、祖国白夜の為に身を捧げる尊い国民であり、敵国兵を殺戮する殺人鬼だ。彼女が救えば救うだけ人間は死に、またその手を赤錆色の血で汚してしまう。
 その事実を曇った目で呑み下してしまえばとっとと楽になれるのに、いつまでもその瞳は哀咽に沈みながらそれでもぴかぴかと光っていた。心根が優しすぎる。それは長所ではなくただの致命的な短所だ。生きている瞳を見るにつけ、どうしようもないほど苛々した。あなたはこの世界に生きていてはいけない、と。



「おやなまえさん。その装束は…」
 朧月のある夜、シラサギ城の片隅で鉢合わせたなまえさんは陰陽師の装束にまさしく着られていた。かけられた声にはっと振り向いたその瞳の怯えた様子も相俟って、罰が当たるのを恐れている幼子のようにさえ見える。
 そんなことを考えかけて、我ながら馬鹿馬鹿しいとその思考を蹴り捨てた。罰が当たるなんてとんでもない。侵略されんとする祖国のため遂に武器を取った彼女はこの国の正しさに塗れているのに。
「こ、こんばんは。アサマさん」
「はい、こんばんは。見たところあなたもとうとう巫女から陰陽師になられたのですね。良いではありませんか、陰陽師。軍の後方で祓串だけを延々と振りまくっているよりよっぽど有能ですよ。あなたの無駄に高い魔力も有効に活用できてよろしいじゃありませんか」
「呪術は学んできませんでしたから、高度な呪は到底扱えないのですけれど…」
「そうでしょうねえ。その気になればいつでも陰陽師や戦巫女の部隊に入れたでしょうに、随分遅いご決断ですね。いやはやご立派です」
 堪らずといったふうになまえさんは目を背けた。篝火に照らされてひらたい頬に影がずずずと揺れる。その時になってやっと、なまえさんが恐れていたのは謂れのない罰ではなく私自身だったのだとふと思い至った。何故とは今更問うまい。今まで幾度となく、言いがかりのようにこの人の周りで面倒くさいことを言い連ねてきたのだ。
 きっと平和な常世こそが彼女に相応しいはずだった。白夜王家直属の巫女として、流行病などに苦しんでいる民を救って感謝されるような生き方を選べたなら。現実はただ非情である。生かされているこの世は血と憎悪の混じったどうしようもないものであるし、彼女はとうとう武器を手に取ってしまった。魚は空を泳げない。それだけのこと。
「……暗夜軍が、近づいてきていますね」
 ぽつり。
「ええ、そうですねえ。カムイ様率いる暗夜軍はテンジン砦やスサノオ長城を突破したそうですから、王都に侵攻されるまで、時間はそれほどありません。きっと我々はこの王城にて彼らを迎え撃つことになるでしょうね」
 改めて口にするとなかなか絶望的な戦況だった。四人の王子王女のうち二人の安否は不明のまま。それでも、なまえさんの瞳は相変わらず無闇に曇ることを知らなかった。絶望をまざまざと直視させられても尚。よっぽど私が嫌事を言い聞かせてやるときのほうがひどい瞳をしていると考えたら、可笑しいのか呆れたいのか分からなくなった。
 「そうしたらきっと、王都の風花の下で…」。なまえさんは続けた。随分詩人なことを気にするのですねと追いかけた言葉はひそりと浮かんだ笑みに流された。
「…なまえさん」
「はい?」
「私はあなたのこと、嫌いではありませんでしたよ」



「『願わくば 花の下にて 春死なむ ――』でしたか」
「アサマ?」
 振り返ったヒノカ様が怪訝そうにこちらを見た。その身なりは粉塵によごれているが、疲労の色がありありと浮かぶ中にも戦姫と称えられた矜持が未だ燃えている。いいえ、なんでもありません。そういえばこの姫君は武芸ばかりに打ち込みすぎて姫君らしい教養にはすこし疎かった。西の方角を見ると白夜王城の紅が遠くに見えた。

 カムイ様率いる軍勢とのシラサギ城での戦闘は散花と共に敗れた。
 ヒノカ様と共にその場を脱出した私に、なまえさんの願いが叶ったかなど知る由もない。


Ash.