※18.12.12に於いてアニメ未発表の原作小説を元にしたネタバレが含まれます
数ヶ月前、利き手に怪我をした。治療のためその手を固定され、随分と不自由な毎日を送った。この不自由さからやっと解放される日は嬉々としたものだが、傷つけられ数ヶ月間機能を抑えつけられてきた手は、怪我をする前と同じようには動いてくれなかった。
リハビリのため引き続き通院している整形外科に、ときどき同世代の青年が同じ時間帯に通っていることは知っていた。いつも上下ジャージ姿にランニングシューズを履いていて、まさか彼がわたしと同じような不自由さを抱えているとは思えなかった。
けれど今日、リハビリ室の片隅で「先生にも、無理したら二度と走れなくなるって言われたでしょう」という、叱責とも哀れみとも取れる静かな声音を向けられている彼を見て印象が一変した。右膝の手術痕を沈痛な面持ちで見つめる彼の横顔から、どうしてか目が離せなくなった。
会計を待つために待合室に行ったときには、すでに彼の姿はそこにはなかった。受付の女性から名前を呼ばれて財布を出しながら立ち上がると、床に見覚えのあるカードが落ちていることに気が付く。
自分が通っている大学の学生証であったが、自分のものではない。表面に載っている顔写真を見ると、先ほどリハビリ室で見た彼のものだった。生年月日を見ると、順当に進学進級していたならば彼はこの春に4年生になったことになる。
「……清瀬灰二」
それが彼の名前だった。
病院の受付に申し出ればすぐにでも電話連絡をしてもらえただろうし、学生課に頼めば確実に彼の手元に戻ったであろう学生証を持って、翌日わたしは大学に行った。ただもう一度会いたいと、何となく思ってしまったのだ。
彼が“走る人”であるという情報を元にグラウンドへ向かう。うちの大学に陸上部なんてあったかな、くらいの認識だったのだが、そこには確かに数人の陸上部員が集まっていた。
練習の邪魔をしないよう、休憩に入ったところを見計らって「すみません。陸上部に清瀬灰二さんという方はいますか」と尋ねてみた。返答は「清瀬?俺は聞いたことないけど」というもので、周りにいる他の部員たちも一斉に首を振る。けれどひとりだけ「清瀬ってあれだろ。アオタケの」と閃いたように口にした。すると次々に「え、あの箱根駅伝出るって言い出した?」「マジで陸上部だったのか」と声を上げる。
このグラウンドを使っているのは短距離の陸上部であり、長距離の陸上部は竹青荘、通称アオタケというところに住んでいる10人だということと、竹青荘への行き方を教えてもらった。その住所を頼りに、わたしは目的地へ向けて足を進めた。
道順通りに角を曲がると、突然自分の横を何かが過ぎ去っていくのを肌で感じる。瞬間的に風でも吹いたのだろうか、そう思ったのは一秒にも満たない間で、それが人だったと気が付いたのは自分を追い抜いて走っていく見覚えのあるジャージの背中を見てからだ。
ああ、彼だ。そう思って「あの、すみません」と声を上げたが彼の脚が止まる気配はない。仕方なく自分も足を踏み出してみたが、それの何と重いことか。追いかけなければいけないと思うのに、彼の背中はどんどんと遠く離れていく。
幸いなことに道が直線だったことで見失わずに済んだが、わたしから見て米粒ほどの大きさになったとき、彼は住宅街の中のひとつの敷地に入っていってしまった。
彼の姿が見えなくなって何分経ってしまっただろう。蔦の張った塀へ手をつき、わたしは肩で息をした。
心臓なのか肺なのか区別もつかないが、やけに胸の辺りが痛い。普段、歩くこと以外に使わないふくらはぎの筋肉や筋が静かに悲鳴を上げている。
「急に止まらない方がいい。ゆっくり流して走るか、せめて歩かないと」
いつもの三倍は重く感じる頭を声のする方に上げると、そこに清瀬さんが立っていた。けれどそのにこやかな表情の所為か、病院で出会った彼と同一人物だろうか、という疑念すら抱きかける。彼の肩越しに敷地内に目を向けると、今にも軋んで倒れてしまいそうな木造家屋が建っており、同じく古びた看板には『竹青荘』とある。
どうしていくらも前に到着した彼がまだ庭先に立っているのだろうという疑問はすっかり頭から抜け落ちていた。慌てて鞄から学生証を出し「これ、を、届けに来たんで、す。拾って」と途切れ途切れに告げれば、彼は「ああ、病院で落としたのか。わざわざありがとう」と謝辞を述べた。そしてわたしはぎょっとし、最初から変わらず微笑んでいる彼の顔を凝視した。
「どうして、病院って」
「昨日、同じ時間にリハビリだっただろう?あれだけ視線を向けられたら誰でも気になる」
「……何か、すみません」
「いいや。それよりアオタケの住所を知っているなら走って追ってこなくてもよかったんじゃないか?きみはあまり走ることに慣れているようには見えない」
「追いかけられてるって分かっていたなら、どうして止まってくれなかったんですか……」
「どうしてって、ジョグ中だったからだ」
数度瞬きをして、わたしには理解できないことを当然のことのように言う彼の内心を読もうとしたが何も読めはしなかった。短距離陸上部の人にメモをしてもらった竹青荘の所在地の書かれた紙を見下ろされていることに気付き、それをスプリングコートのポケットに突っ込んだ。
病院では彼を遠巻きから見ていただけで内面など知る由もないのだが、わたしは随分と彼を美化していたのだろうか。故障したアスリートというのは悲劇のヒロインならぬ悲劇のヒーローよろしく、傷付き落ち込んでそれでも再起をかけて自分を奮い立たせる、そんな繊細で強いイメージを持っていたのに、目の前にいる彼は怪我のことなど気にも留めていないように穏やかに振る舞う。なかなかに掴みどころのない性格の所為でそう見えてしまっているのかもしれないが。
「あの、走って大丈夫なんですか?昨日あんなこと言われていたのに」
「それについては、他言無用でお願いしたい」
わたしの言葉が言い終わる前に、語尾に被さる勢いで彼は言った。他言無用とは、一体わたしが誰に言いふらすというのだろう。共通の友人知人もいないというのに。
「それに、まだ無理はしていない」
「まだ、って……」
「でも今のままなら箱根は走れない。今年無理をしなかったら、俺は一生後悔する」
唐突に変わった真摯な表情と真っ直ぐな声音に、またあのときのように目を離せなくなってしまう。
この事実を知らせたくない相手は、きっと彼のチームメイトだと思った。二度と走れなくなる可能性など易々と告げられるものではない。それを知ったらチームメイトは彼を止める。言われずともそんな人たちなのだと思い至った。
こんな重大な事実をただの通りすがりの小娘に聞き耳を立てられ、気分を害したに違いない。ただ「絶対に言いません」と宣言すること以外、わたしにできることはない。
そう多くない自分の中の“箱根駅伝”の情報を掻き集める。毎年、年始にテレビ中継されるそれを横目に見る程度のわたしが語れることもないが、実況アナウンサーや解説の元ランナーがシード権、シード権と繰り返していたことを思い出す。それほど実績のある強豪校が出場するということだ。そこを目指すために、どれほどの努力を要するかわたしには想像することもできない。
そこに、彼は自分の脚を賭けてまで出場したいと思っている。走りたいと思っている。それだけは分かった。自然と、涙が出た。
今度は彼がぎょっとして、わたしの顔を見下ろしていた。「何でもないんです。本当に」と自分でもよく分からない言い訳をしながら袖で涙を拭くと、やっと彼も穏やかな表情に戻る。
「わたしは、清瀬さんが箱根を走るところを見られますか?」
その質問に彼は「箱根に出なくちゃいけない理由がひとつ増えたな」と笑って答えた。どこの馬の骨とも分からないわたしに向かって、だ。
最後かもしれない、と覚悟しながら彼の走りを見られるのはわたしだけだ。その事実を理解したとき、彼の走りを目に焼き付けたいと思ったのだ。何も知らないわたしでも、見守っていたいと思ったのだ。
彼がわたしの不自由さとは比べものにならない傷を抱えていることも、彼が繊細で強い人だということも知らないままだったなら、こんな気持ちにはならなかった。
この身の程知らずな想いが溢れ出てしまわないように口を噤むわたしに、彼は言葉をかける。
「俺のことはハイジと呼んでくれ。きみの名前は?」
Ash.