『根本的に違うと言える。客観視しても分かりきっている。冗談では済まされないし、かと言って、信じてもらえないかもしれない。ならば一体、僕は何処に行けばいいんだろう』

『クジラは世界の果てを知らないと言うし、イルカは海の底を見たことがないと言う。水面に映る満月の輝きは、まるで聖人君主へのスポットライトだ』

『闇の世界が照らされてなお、僕は陽のあたる場所を歩けない。歩こうとさえ思わなかった』

『さぁ、僕の前に立ち塞がる者達よ、どうしたらそこを退いてくれるのかを教えておくれ。手足を千切ればいいのか、裂いてしまった方が良いのか、それとも肉を抉ろうか。

選べ、愚者のなりそこない共よ』


◇◆◇


「……気持ち悪い」

「え〜?とっても上手な演技だったと思うんだけど、ボク」

ビィー。閉幕の合図が劇場内に鳴り響く。隣合って座っているボクと彼女は、真っ暗なスクリーンをただ見つめている。照明が灯され始め、他の客が立ち上がりゾロゾロと出ていく。明るくなる広い個室の中でボクと彼女は二人きり。胸がドキドキして止まない。

「……似てるよ、あの俳優」

「誰に?」

「ヒソカ」

「ボク?」

「うん」

シートを区切る肘置きに置かれている彼女の手を見つめる。健康的に焼けた肌、ちょっと力を込めればポキッと音を立てて折れてしまいそうな手首、程よく付いた肉。ボクの手で覆い隠してしまいたくなる衝動を抑えて、真っ直ぐにスクリーンを見つめる彼女の横顔を見やる。

「ボク、もっとカッコいいと思うんだけど」

「見た目じゃないわ」

冗談めかして言ったボクに彼女はぴしゃりと言葉を言い放った。

「雰囲気よ。人を殺すときの」

「……へぇ、そうかい?」

血飛沫が舞う中を嗤いながら突き進む画面の向こうの彼を思い出す。血塗れになりたい訳ではないしこれでも気遣ってはいたんだけれど、彼女の目にはそのように映っていたらしい。少しだけ反省しようかな。

「あれ?なまえ、ボクが殺ってる所見たことあるの?」

彼女が当たり前のように呟くからボクは大事な点を見逃すところだった。なまえとは清く正しい付き合いをしてきた筈なんだけど。

「……一度だけ。雨の街で」

美しい彼女の横顔に一瞬の翳りが現れる。彼女はほんの少しだけ瞼を落とした。ボクは彼女が口にした街の名前を頭の中で反復する。過去に囚われる生き方をしてこなかったボクは、記憶を辿るというものに苦戦している。きっと美味しい人材がいなかった街なのだろう。けれど引っ掛かっている。雨の中、ボクは……。

「毎日のように雨が降っている街よ。覚えてないの?」

「ん〜……街の名前は聞いたことあるけど……」

ここで漸く彼女がボクの方に顔を向けた。待ち望んでいた彼女の全貌は、やはりどこを取っても美しいと感じた。大きな瞳も、真っ直ぐ通った鼻筋も、閉じられた唇も、サラサラな長い髪だって、彼女の全てがボクを魅了する。

「なまえはなんでその街に居たんだい?」

そっと話題を逸らせば、疑わない彼女はあっさりと思考を切り替える。

「元カレがあの街で会おうって言ってきたから……」

「へぇ。元カレねぇ」

知っているよ。けれどボクは知らないフリをする。足を組んで頬杖をつき、目を伏せる彼女を見つめ続けた。ボクと彼女の交流が始まった時から彼女には恋人がいた。いつの間にか別れていたらしいけれど。

「……来なかったの。いくら待っても」

この表情の彼女は元恋人を思い返しているのだろうか。面白くないなァと思いつつ、顔には出さないように気を付けながら彼女の言葉に同調を示す。

「それは、酷い男だ。キミを呼び付けておいて、結局現れないだなんて」

「……うん」

「別れて正解だね」

嬉々とした感情が溢れ出ていないか心配だ。だってボクはなまえが好きなんだ。こうしてデートは時折する仲だけれど、二人の間には適度な距離が保たれている。それに彼女が築きあげた超えてはならない、触れてはならない目には映らない境界線があるのだ。

「まぁ、別れた原因はヒソカだけどね」

「え?そうなの?初耳だよ」

瞬きをして聞き返せば、ふと笑みを浮かべる彼女は口を噤んだ。悲しみは見られない。彼女が嘘を言っているようには見えないからどうやら本当のことのようだ。

「言ってないもの」

「ふーん……でも、キミはボクを選んでくれたってことだよね。嬉しいなァ」

「違うわよ。あっちから別れを切り出されて、私も『はいそうですか』と承諾しただけなの。ヒソカを選んだ訳じゃない」

ホラ。こうやって彼女は明確に線引きをしていく。ボクの片想いさえ許してくれない。ボクから逸らされた瞳はどこか遠くを見つめている。何を映しているのだろうか。その瞳の中にボクを閉じ込めてくれる日は来るのだろうか。

「……ただの友人だと言っても聞き入れてはくれなかった。ずっと、疑っていたみたい」

「そっか。酷い男だね」

「だから会おうって言われた時、本当は行かないつもりだったのよ」

「だったら、どうして会いに行ったんだい?」

会話の流れとしては至極当然だ。何も映っていない真っ黒なスクリーンを見つめ続ける彼女に問いかければ、うっそりと笑みを浮かべた。

「誰かさんが追い掛けて来たらいいなと思って」

「え?それって……」

「さ、帰りましょう。存外つまらない映画だったわ」

ボクを視界に入れようとしないなまえはすっと席から立ち上がった。誰もいない劇場から、ボクと二人きりの空間から立ち去ろうと言う。ボクが聞き返す暇はなく、彼女は出口に向かいさっさと歩いていた。ボクはその小さな背中を追いかける。

「なまえ、待ってよ」

「待たない」

さっきの言葉の真意を知りたい。彼女はボクの事をどう思っているのだろうか。
雨の街でボクを見かけたと言っていた。あの街でボクはたった一人しか殺していない。なまえはその現場を見たと言ったのだ。あの街を訪れて何ヶ月と時は過ぎた。それでも彼女とボクの交流は続いていた。つまりは、そういうことだろうか。期待をしてもいいのだろうか。

「ね、この後ディナーでもどうだい?」

「いいわね。じゃああそこにしましょう」

「……もっと素敵な所へ行こうよ」

「あら、あそこも充分素敵じゃない」

劇場を出た後も、ボクとキミの距離は変わらない。友人にしては近過ぎて、けれど恋人というには余りにも離れていた。
外は夕闇色に染まり始めている。周りを歩くのは手を組んだ男女ばかりで、そんな中のボクと彼女は少しだけ異色だ。けれど彼女は気にしていない。


ねぇ、なまえ。ボクはあの日、雨の街でキミの元恋人を殺したんだよ。雨が降りしきる中、あの男の血を浴びてボクは立ち竦んで居たよ。
ボクはキミが雨の街にいた事を知っていた。あの男がキミと待ち合わせしている事も、知っていた。雨が全てを流してくれると思ったんだけど、キミに見つかってしまった。ボクの血に塗れた手は、脚は、身体は、心は、それでもキミを欲しているんだ。美しいキミを欲している。


頭の中では、なまえがボクに似ていると言った俳優のセリフが過ぎった。

『選べ、愚者のなりそこない共よ』

血に塗れた彼は、なるほど確かにボクとよく似ている。


◇◆◇


私の隣を歩く男が、本当は高級ホテルのレストランに私を連れて行きたい事を知っている。けれど私は彼の思惑通りには動いてやらない。庶民的なカフェでの夕食だってたまには良いだろう。

「ちぇ……今日はキミとのデートだからってオシャレしてきたのになァ」

一歩分開けて私とヒソカは並んで歩いている。チラリと彼を視界に入れれば、確かにいつもの奇抜なメイクは施していない。むしろ普通にカッコいい部類に入る。そんな男が、私の元カレを殺したことを私は知っている。

「ヒソカは何処で何をしててもカッコいいわよ」

「え、それ本当?なまえがボクを褒めるなんて……!」

雨の街でヒソカが人殺しをする場面に初めて遭遇した。驚愕はしたが不思議とヒソカに対する恐怖は無かった。降りしきる雨の中、傘もささずにヒソカは血に塗れていた。彼の足元には原型も留めずにグチャグチャな人だったナニカがいた。それよりも私は、殺された元カレよりも私は、浴びた返り血を雨で流しているヒソカに目を奪われた。

「いつでも、おもっているわよ」

彼氏と別れたのが一年前、会おうと言ってきた元カレがヒソカに殺されたのが半年前。ヒソカに気を向けるようになってからは、彼の態度が私に向いているというのがよく分かる。
だけどまだ、靡いてやらない。私はヒソカとの間に線を引いた。境界を作って距離感を一定に保った。身体的接触は今まで一度もない。気持ちはまだ交わらない。

これは、彼に対する密かな抵抗だ。本当はヒソカに想いを伝えたい。あの逞しい腕で私を抱きしめて欲しい。大きな掌で頭を撫でて欲しい。甘い声で囁いて欲しい。あの瞳で、私を捉えて欲しい。深い口付けを交わしたい。けれど、まだ、まだ。私はまだ抗わなければ。だって、彼は、ヒソカは。


ヒソカは、気まぐれで嘘つきなのだから。


Ash.