この世界はあまりにも醜すぎる。醜くなりすぎた。世界は善だけで成り立ってなどいない。自分本位な悪意をもつことを罪だと気づくこともなく、他を虐げ無害そうな顔をする人間はあまりにも多すぎる。人間は奪い合い、破壊してばかりだ。その悍ましいまでの傲慢さで穢ればかりをうみだす。

 ある日フラダリさんは今まで見たことがないほど凍てついた表情でわたしに言った。

 氾濫したいのちは滅びるべきだ。滅びなければいけない。そうでなければいつまでも救われない。そうではありませんか。そうやって悲痛に笑うフラダリさんの笑顔が無知で愚かな私を傷つける。いつもの優しいフラダリさんはどこにいってしまったのか分からなかった。けれど、もしかしたら、今までずっと見てきたフラダリさんこそ虚像なのかもしれなかった。
 彼の静かな怒気のなかに、砕けた硝子玉のような彼のこころを見た。



 カロスの大都会・ミアレシティのシュールリッシュからの眺めにもそろそろ飽きてきた。
 窓辺のヤヤコマにちち、と挨拶して、そんなばかなことを思った。もう何ヶ月もこんな高級ホテルで暮らしている。こうして囲われている状況は、下手をすれば「アイジン」なのかなあ。微睡を引き摺ったままの眠たい頭でよぎる危ない考えは、それがノーだとよく分かっているからこそだった。伸びをすると背中がぱきりと鳴った。

 枕元に置いていたホロキャスターにはフラダリさんからメッセージが届いていた。開くと、幻影のフラダリさんが映る。『おはようございます』。几帳面そうにそれだけ言って、ぷつりと切れる。わたしは笑って、もう一度メッセージを開いた。「おはようございます」。『おはようございます』。「今日はいいお天気ですね」。ぷつり。結局過去の彼でしかないそれは、わたしの言葉に応えずに消えてしまう。

 モーニングコールって素敵ですよね。いつか口にした幼く見え透いたおねだりを真面目に叶えてくれているだけなのだ。毎朝電話してくれる男性って素敵ですよねと言えば良かった。後悔はこんな些細なことでうまれて、こころのどこかに凝っていく。今日の彼はいったいどこで生きるのだろう。粘着質な執着を自覚するわたしは、フラダリさんのことがすきだった。愛ってどういうことなのかよく分からなかったけれど、大衆が叫ぶ愛のかたちに、この感情は似ているような気がする。

 彼を恋い慕うことはあまりにも眩しい光源を直視し続けることに似ていた。愚かなわたしはただ彼がすきだというきもちにまみれて、彼という人間がすっかり分からなくなっていた。どれだけ瞼をとじまいと抗っても、輪郭さえ掴めない。世界を愛する人格者なのか世界の破滅を願ってばかりいる極悪人なのか、とうとうわからないままに、疲れてしまった。ひたすら彼のことがすきだ、それだけが真実だなどと甘やかで馬鹿げた自己完結の内に閉じこもり、彼が調えてくれた世界で目を閉じている。


 起き上がったわたしはブランチをいただき、清掃の時間だけノースストリートに繰り出し、歩き、映画を借り、また親愛なる巣へと戻った。街中は雑踏ばかりで疲れてしまう、ような気がする。そんな錯覚を背負ってわたしは歩く。きぃん。水中にいるようなさんざめく耳鳴りがいつまでもやまない。
 本当は、彼のいそうなところすべてに行きたかったとエレベーターで考えている。鉢合わせたベルボーイと目が合う。「ご機嫌いかがですか」。鷲鼻の、ハンサムな人だと思いながら、すこし考えて「おかげさまで」と返した。唇が固い。「良い1日を」と見送られる。その言葉がマニュアルに縛られた定型文だとしても、わたしはまた世界に輝きを見つけてしまった気がしてたまらなく泣きたくなった。




 月のない夜のようなとぷとぷとした黒の中で、わたしは誰かの腕を必死で掴んでいた。だめ、だめ、行かないで。お願いだから、どうか行かないで。暗がりのなかで誰かの顔は見えない。どれだけ悲痛な声が出ても、返事はない。掴んでいるはずの腕の感触も手のひらにはないし、そのうちわたしはどうして腕を掴んでいるなどと思ったのかすら忘れてしまった。誰かを形作るなにもかも、わたしのもとにはない。
 それでもどうしてだか、唇は「行かないで」ばかりを繰り返した。こんな恐怖と心臓を貫かれ続けるような痛みと絶望を抱えなくてはいけないのなら、このまま消えてしまいたいと思った。それでも彼はどんどんどこかにいってしまう。わたしがついて行くことができない寂しい場所にいってしまう。ねえ、待って。声は届かない。ずぶずぶと黒の中に飲みこまれていった誰かは最後にどぷんと音を立てて、消えた。





 フラダリさんの、呪いの言葉を聞いたのはあの時の一度きり。鳴りを潜めたのではなく、わたしが彼の悲しみを適切に分かち合うことができなかったから彼ももうそのことについて何も言わずにきたのだ。
 自分の過ちに気づいていたわたしは、あの恐ろしい彼の本性を忘れられないまま、やはり踏み込まなかった。踏み込めなかった。

 不吉な夢から体をずるずると引き摺り出すのを待つように、シーツの海の中でぼーっとしていた。ルーティンを踏み外した目覚めはあまり気持ちのいいものではなかった。いったい今は何時だろう。枕元のホロキャスターに手を伸ばす。夢の中で彼を引き止めることもこんなふうに上手く、容易くできたらよかったのに。
 そんなことを考えながらホロキャスターを開こうとしたのと、通信を報せるようにホロキャスターが震えたのはほとんど同時だった。隅に見えたあまりにも早い時刻に仰天しつつ、慌ててそれに応える。

「もし、もし?」
『……おはようございます、なまえ』

 浮かんだフラダリさんの幻影は過去の彼ではなかった。掛けておきながら、まさかこんな時間にわたしが応答するとは思っていなかったのだろうか、驚いたような顔をしている。まだ夜も明けきらないというのに、フラダリさんはしっかりとスーツを身にまとっていた。
 『起こしてしまいましたか』。気遣う声に「いいえ」と答えて、「どうしたの、フラダリさん」と訊ねる。フラダリさんが胸いっぱいに息を吸う音。

『今日が最後です。限りあるものを奪い合うこの醜い世界に別れを告げます。無論、あなたとも』

 フラダリさんの言葉を頭が理解するよりも先に体中の血液すべてがさっと冷たい液体になったような心地だった。「…そう」。急激な放熱とは裏腹に、唇からこぼれたのはそれきり。

 いつかくる明日よりは不確かに、けれどもわたしは知っていた。生命の総意に対してフラダリさんが悪だ。どれほど高尚でも、彼の足元には泥のような闇が広がっている。そんなのは嫌だった。彼のもとにあるのは情熱的で揺るぎない赤であってほしかった。

「ありがとう、フラダリさん。わたしあなたのおかげで幸せでした」
『そうですか。それは、…良かった』

 彼は、とうとう「間違っているでしょうか」とわたしに訊くことはなかった。知っているのだ、このひとは。それでも彼は決めたのだ。燃えるような鬣に似た髪が孤独を加速させる。

「どうかあなたの行く道にあなたの求める世界がありますように。愛しています、フラダリさん」
『ええ。あなたを連れていけないほど、愛している。愛していた』

 やはり未だ愛はよく分からないまま。ただ満たされるための記号のように差し出したそれにぴたりとフラダリさんの慈しみの慕情が嵌る。そうです、わたし、あなたが何者でもこれが愛でなくても構わなかった。最後まで、わたしは目を逸らしている。

 ぷつん。通信が切れた。『もうすこしはやくにあなたとであっていたら』。そんな小さな囁きは終ぞ聞こえなかった。当たり前だ。そんな幸福な出来事は起きない。

 『氾濫したいのち』のひとつであるわたし、次に目覚めることはあるのだろうか。もう一度、太陽に口づけできる日はくるのだろうか。
 シーツの海にまた身を埋め、両手でホロキャスターから昨日のフラダリさんのモーニングコールを呼び出した。『おはようございます』。「おはようございます」。『おはようございます』。

「…おやすみなさい、フラダリさん」


Ash.