はい書き直しー、と軽い口調で破かれた書類が持つ意味は比較的重い。
任務中怪我を負う可能性がある事、死亡する可能性がある事、死亡した場合遺体は家族の下には帰らない事、遺体は高専が然るべき処理を行う事、それが研究対象として扱われる場合がある事うんぬんかんぬんその他諸々。
自署が求められるそれは同意書だった。
無言で新しい書類を引っぱり出して署名をし、判を押す。と、横から伸びてきた手が書類を抜き取り無惨に破り捨ててしまった。
この一連の流れを、なまえは五条悟と二時間ほども続けている。
ちなみに五条がここにいる限り、いかなる手段を用いても破られる事を回避する術はない。それが無下限呪術というやつである。
無駄遣いにも程がある。
「……これ、五条も提出したんだから知ってるでしょ。提出しないと高専に入れない」
「え、してないよ。こんな条件、虫酸が走る」
「えっ」
こいつどうやって高専入ったの。
「なまえはなんで同意するの。僕は納得いかない」
「いやだって、」
「一つ、なまえなんで死ぬの。二つ、なまえの遺体は実質高専の物になる」
納得いかない、ねぇなんで、と問う男は純粋に疑問に思っているようだった。長年の付き合いであるなまえにはわかる。
あまりにも純粋なので、なまえ自身も「え、なんで?」と揺らぎ始めてしまった。え、なんで。
もう何年も前の話だ。
◇
伏黒恵から見て、その女はふざけた教師だった。
五条と同期という彼女は、五条同様の軽さで伏黒にちょっかいをかけてくるような教師だった。
「藤谷くん藤谷くん」
「伏黒です」
いつも名前を間違えてくるのはわざととしか思えなかった。
こんなふざけた教師でも実力は折り紙付きで屈指の呪術師ではあった。
才能がないからこんな歳まで続けてんのに1級なんだよと笑っていたが、違う。才能があるから1級なんだ。
みょうじの隣にいる男が異常なのだ。何せ世界にたったの4人しか存在しない特級の一人だ。
みょうじは強い。20代で1級など天才の域である。
だから「もしも」の時が訪れ宿儺と一人で対峙していた時、悪い遅れたと駆けつけてきてくれた時には心底ほっとしたんだ。
それなのに、
「伏見退がって、そんで五条に伝えて」
「伏黒だっつってんだろ!俺も、」
「『誰も殺すな。全部守って一秒でも長く生きろ。惜しめ』って」
続く言葉を飲み込んだ。
そんなの卑怯だ。大人は皆そう。どいつもこいつも狡い、と渾身の力で唇を噛んだ。
そんな言葉、預かったなら退くしかないじゃないか。
結果、虎杖悠仁は帰らぬ人となり、みょうじなまえは意識不明の重体となって発見される事となる。
◇
五条悟という男は、可哀想で救えない男だった。
見えていると言うけれど、あの人の視界を覆う目隠しは、あの人に綺麗なものや光の世界もちゃんと見せてくれているのだろうか。
類い稀な才能は彼を孤独にし、異常な強さもまた然り。あんまり強過ぎるのでなまえには到底救えない男だった。
偶然の重なったそれを、奇跡や運命と呼ぶのだと思う。偶然近くに生まれただけのなまえに、偶然伸ばされた手。なまえには千載一遇のチャンスに思えた。
掴んで、離してなるものか。
ただそれだけしか出来ないが、それだけは決して譲れなかった。
「………」
目を開けたら蛍光灯が並ぶ白い天井が見えた。
ベッドの上に寝かされている。
あれ、なに、なんだっけ、と体を動かそうとして、
「って、ぅおう…?」
痛みに驚いて混乱する始末。
「起きた?」
ぎこちなく顔を動かすと高専の医師である家入がそこにいた。
ここ、高専の医務室だ、と漸く気が付く。
脈や眼球を確認しながら、家入が状況を説明してくれた。
曰く、宿儺にぼこぼこにやられた、と。
「ちなみにあれから丸三日経っている」
「あ…伏木田くんと器、宿儺の器は」
「大事ない。二人とも君より軽傷さ」
「まじかぁ…よかっ、」
「良かったねぇ、お前がこんなになった甲斐がある」
びっくりして声が出なかった。
突如として鼻先に現れた目隠し男、先ほどまでこの部屋にはいなかった筈である。
これだから無下限呪術というやつは…!
「家入、悪いけど外して」
五条の言葉に、察しの良い家入は言われるまま退室していく。
「恵から聞いたよ。なにあれ。一秒でも長く生きろって、良く言えたもんだよね」
「伏木田ぁ…」
五条が体ごとのしかかってくる。
「お前はどうしたら賢くなるのかな」
色気の無い押し倒され方だった。うら若き乙女の胸に置かれた手のひらが、容赦ない力で圧迫してくる。
こちらは怪我人だというのに酷い仕打ちだ。折角閉じた傷がまた開いてゆくような痛みがあった。
非常に苦しい。
「心配?…悟って、私のこと好きなの?」
「好き?好きじゃないでしょ」
だって僕、お前のことが憎くて憎くてたまらない。
一瞬何を言われているのかと疑問に感じたが、なまえの都合の良い頭が、徐々に都合の良い解釈をし始める。思わず口角が上がった。
「全然…思い通りにならないお前が憎い。たまに気が狂いそうになる」
「へえぇ、穏やかじゃあ、ない、なぁ」
なまえの体だけでは受け止め切れないほどの負荷がかかり、ベッドのスプリングが軋む。
己の物かと確かめる手が、皮膚を肉を骨を越えて心臓を掴みにかかってくるようだ。
「ほんと迷惑だよ。苛々する、どうして大人しくできないんだ」
それ、もう私じゃないでしょと伝えたい。
けれどあまりにも強い力で胸を圧迫されているもんだから、声を出すのも億劫で。
手を伸ばして五条の頭を抱き寄せた。
されるがまま落ちてきた頭をいいこいいこしてやると、最強の男が泣く声を聞いた。
どうしてついてきてしまったんだ、と。
「どうして、守られてくれないんだ」
対してなまえは、なまえだけの秘密がまた増えてしまったと満面の笑顔だった。
Ash.