慶長十八年、日の本から追放される間際にとある宣教師がこんな予言を残した。
「当年より二十五年目に美しい童子が現れ、応験天にあらたかに野山に白旗たなびき、諸人の頭に十字架を立て、東西に雲の焼くることあらん」
この時点でまだ生まれてもいなかった後に天草四郎と呼ばれることになる少年の運命はこの時決定された。切支丹大名として有名だった小西行長の遺臣、益田氏の子である彼は、この予言から二十五年目に島原の地を踏んだ。遊学先から戻ったというのが通説で、彼はまだ十代の半ばに差し掛かったばかりだった。予言の通り、美しい童子が現れたことで、迫害されていた切支丹たちは色めきたった。彼等の大半は重税に喘いでいた百姓たちで、その中には旧領主の覚えが目出度かったが為に面目を失った浪人たちも混ざっていた。彼等は奇跡を望んだ。それもより、わかりやすいかたちで。
「どうかしましたか?」
室内だというのに赤い外套を羽織ったままの天草が、二杯目の煎茶を啜りながら言った。尋ねておきながら、どうでもよさそうな、聞き様によっては投げやりな調子。
「美しい童子…」
私は先程読み終わってしまった雑学本を戯れにめくって、一部を声に出してみる。天草は飴色の瞳を愉快そうに細めた。
「おや?含みのある言い方だ…」
天草自身は揶揄してみせるが、彼が平均以上に整った顔立ちをしていることは事実だ。そして美しいものが大抵そうであるように、彼もまた浮世から離れた、霞のような捉えどころの無さを纏う。子供のようにも大人のようにも見える風貌に、危うさを視るのは私だけではない筈だ。享年は十七歳だというから、英霊としての彼もまたその近辺の年恰好なのだろうけれど。
「天草はキレイな顔してるよ」
これは心の底からの賞賛だったが、途中に煎餅の咀嚼音を挟んだせいでいかにも適当に響いた。私の狙い通りに。
「ただ天草の子供時代が想像出来なかっただけ」
二十一世紀に生きていた私の感覚では、十七歳は子供扱いされて然るべき年代であることはこの際置いておく。私と向かい合って湯呑を傾け、昼下がりの怠惰を甘受するこの青年は江戸初期の育ちだからだ。
「そうですか?」
時代なんて大袈裟な言葉を使うのが憚られるほどに近しい幼少期から、私は読書や観劇が好きだった。誰の手も借りずに、一人で出来ることだから。その中でも特に私が好んだ、アンダーグラウンドと呼ばれる神秘と頽廃の香りが色濃い分野において、天草四郎という存在は殊更愛されていたように思う。図書館で借りた怪奇譚の天草は只管に痛ましかったし、家人に内緒で劇場に足を運んだ幻想劇では女と見紛うばかりに艶めかしかった。
「私には少女の貴女が目に浮かぶようだ」
天草は今まさに思い浮かべんとするかのように目蓋をおろした。数多の芸術家たちに滅びの夢を与えた男の、意外なほどあどけない顔立ちに見蕩れる。憧れの人と呼んでも遜色のない相手は、出逢ってしまえば何のことはないただの叛逆者で、敗北者だった。どんなに神に祈ろうが、その指先まで悲しみで満ちている。死者は記録だ。殉教者という在り方を、おそらく彼は変えないだろう。
「本ばかり読んでいたのでしょう?…まるで祈るように頁を捲りながら、たった一人で」
見てきたように語る彼は、もしかしたら本当に知っているのかもしれない。あの日の私の孤独を。その安寧を。だって彼は天草四郎時貞だから。繰り返し語られ騙られ拵えられた、誰かの為の物語の一つだから。
近代を生きるあの国の若者の大半がそうであるように、私は信仰を持たない。政治への不満もない。カルデアに来るまでは、生存への不安も覚えたことがない。従って、私は天草の思考や哲学がどうしたって理解できないのだった。宗教家が大抵そうであるように、神の教えを説くことに対して天草は非常に根気強かったけれども、聞いているこちらのほうが音をあげてしまうので、彼の布教はなかなか実を結ばなかった。本が好きならばと、聖書を渡されたこともあるが、人理修復という特異な旅の最中では、落ち着いて本を読んでいるような暇などある筈もなかった。いや、時間など遣り繰り次第でどうとでもなるのだから、読もうと思えばきっと読めた。そうしなかったのは、怖れたからだ。余暇が生まれてしまえば、私は足りない頭で思考を始めただろう。滅亡に抗う、その意味を。おそらく私には見つけられなかったに違いない。運命に逆らってまで、この世界を救わなければならない意義など。
「何か話していてください」
柔らかだけれども有無を言わさぬ調子で天草は言った。彼が他者に命令し馴れている立場だということを否応無く感じる。革命家の資質の一つは、声がよく通ることだというのを思い出した。
「…私にはアニマもハライソもよくわからないけどね、」
「えぇ、そうでしょうとも」
天草は私の不信心を責めない。小さな相槌だけうった。
「何処にいても、何をしていても、神様が見守っていてくださるのは、素敵なことだと思うよ」
それを心から信じることができれば。生きていくことは今より、きっと辛くない。人理が燃えても。人類が消えても。神様が全部、覚えていてくれるなら。
「愛されてるって、思っていいんでしょう?」
私の手を握る力が強くなった。天草の表情を確認したいけれど、目を開くことができない。それどころか、指の一本すらまともに動かせそうにないのが情けない。痛みを感じないのは、おそらく天草が手を繋いでくれているからだろう。彼が生前から起こし続けていた奇跡の証人に、まさか自分がなろうとは。有り難い限りである。無様に泣き叫んで痛みに苛まれながら死ぬのは嫌だった。だって殆どの人間は痛みを感じることもなく消滅したのに、私だけ苦しむなんて不公平じゃないか。
「勿論です、神は貴女と共にある」
口では聖職者らしい台詞を吐きながら、天草は私の頬を何度か強めに叩いた。私が楽になることを、赦さないとでもいうように。
「…もう嫌だよ」
神様の愛した世界を、それだけを理由に愛することなんて私には出来なかったのだ、結局のところ。洪水みたいに浮かんでは消えていく、神様を愛したり天国を憎んだりしていた数多の天草四郎たち。それらは等しく美しい。芸術で、造り物だからだ。
「可哀想なマスター、貴女の苦しみは貴女だけのものだ」
そして私の想像する神もまた、私だけのものなのだ。天草という偶像と大差無いとまで言ってしまえば、このなりそこなった殉教者は怒るだろうか。
「そして私は、その苦しみを想像しない」
先程まで叩いていた頬を、今度は優しく撫で始める。奪われていた筈の感覚が蘇って、私は身を抉る痛みに声にならない悲鳴をあげた。
「貴女にはまだやるべきことがある、神は貴女を生かすでしょう…これこそが、運命というやつかもしれませんね」
予言に擬えた人生を生きて、死して後も囚われ続ける青年はにこやかに喋り続ける。瀕死の私に死に抗えと、無理矢理魔力を注ぎ込みながら。
「…俺は貴女が羨ましいな」
意識を手放す寸前まで、天草の声を聞いていた。この苦難を乗り越えて、再び世界とまみえることになっても、私は聖書を読まないかもしれない。
Ash.