※下記楽曲の歌詞・PVの表現を用いた上で自己解釈を行った作品となります(検索避けのためピリオドを挿入しております)。
{emj_ip_0687}F.a.r.i.y.t.a.l.e., / b.u.z.z.G.
《金環日食まで30分となりました》という声が大きなモニターから耳に入るが、生憎の雨だ。それもお構いなしに、私は気に入っているターコイズブルーの傘を広げ、しっとりと湿る肌をポケットから取り出したハンカチで軽く押さえた。
「落ちましたよ」
後方から掛かる声に振り向く。無意識的に礼を言って、落としてしまった新幹線のチケットの領収書を受け取ろうとしたのだ。領収書を拾ってくれた人を見ると、言葉が詰まった。当然だと思う。こんなに人が多いところで、かつての恋人と出会うだなんて一体誰が思うのだろう。
和成? 疑問を含んだ声だった。どうしてここにいるのだろう。髪型が、目が、そうだとは思うけれど、万が一違っていたら恥ずかしいな、という思いが込み上げるけれど、なまえという声に、ああ、和成だ と安心を得るとともに、想い出がぶわりと駆け巡った。
彼と一区切りあるときは、何かにつけて雨だった。高校時代には、傘を忘れた和成と一緒に帰ることになり、道中、好きだから付き合ってと言われた事がきっかけで交際に至った。
それから大学へ進学し、就職して同棲したところまでは上手くいっていた。けれど、就職してから3年経った頃には互いに仕事を任されることも多くなり、忙しくなって予定していた旅行は計画とキャンセルを繰り返し、一緒に暮らしているのに顔を合わせられない事がつらくなった私は別れを切り出した。好きだけど、だから一緒にいるのはもう無理なの。ごめんな、とだけ和成が言って破局したときも、しとしとと雨が降っていたのを思い出す。そして今、彼との再会の時も雨が降っている。
どうして今なのだろう。癒されていたはずの傷は簡単には塞がってくれていなかった。憧れは憧れのままだったのか、そうして1人納得して声を掛ける。
「拾ってくれてありがとう。お礼をさせて。このあと時間があるなら」
あの頃にはもう戻れないとわかっているはずなのに、少しの期待をしてしまう私は馬鹿なのだ。
あー、じゃあ。お言葉に甘えて。という彼の言葉に安堵したのを悟られたくたくて、雨が跳ねるのも意に介さず、付き合っていた頃に行きつけだった喫茶店へと足を急がせた。
紅茶とコーヒーを頼んだ私たちは、近況報告をして他愛のない話に華を咲かせる。プロジェクトのリーダーだぜ。さすが、すごいね。そっちは?と話をするうちに注文したドリンクが届いた。他店よりも大きい、両手で持つようなマグカップに注がれた飲料に、やっぱりここのマグは大きいね、と思いを馳せて並々と紅茶が注がれたマグを持ち上げる。
「結婚すんの?」
不意に紡がれた言葉に、紅茶を冷ます息を止めてしまう。どうしたの?と、努めて笑って答えた私に、彼は指輪 とだけ言ってコーヒーのマグを持ち上げた。
「ああ、これ右手よ。 それより、ミルク入れないの?砂糖もいるでしょ?」
「いや、そのままで」
「そう」
そう言って話を変えたことに彼は気づいただろうか。ミルクも砂糖も要らないと言われ、もう自分の知る彼ではないのだと悟る。そして再びマグを持ち上げ、息を吹きかける私に彼は言った。
「相変わらず冷まさないと飲めねーのな」
「そうね。相変わらずだね」
「でもなんか、背伸びた?」
「違うよ、ヒール、履いてるから」
「なるほどな」
彼の変わらないことは、納得したときに下を向いて笑う癖。ヒール慣れたのな、これ気に入ってるから、と続ける会話に彼女の胸が痛むのを知っている者は誰もいなかった。
「んで、誰からもらったの。指輪」
「やだなあ。自分で買ったの」
彼女の変わらないことは、猫舌と嘘を吐くときに髪を耳にかける癖。そっかそっか、としか言えない彼の胸が痛むのを知っている者もいなかった。
「いつまで出張なの?」
「明日。早く戻んねーとな」
「同棲でもしてたり、とか?」
意図せず聞いた言葉に、まあな、と声が響く。充実してていいね。と言えば、充実ってこっちもいろいろあんだろー、と懐かしい顔で笑う彼に、そんな笑わないでよ、とつられて彼女も笑った。
「猫さ、寂しいから飼ったのよ」
「そうなの? じゃあ早く戻らないと心配だね」
「そうそう」
聞きたかったことも半分に、熱くてなかなか飲めなかったはずの紅茶も、いつのまにか底に達していた。
「この店、もう無いかと思ってた。隠れ家みたいじゃん」
「近々移転するんだって。マスターの隠居先に。それで、雑貨店が入るらしいの」
「へえ、どんどん変わってくんだな。…っと、コーヒー、もうねーや」
時間は一瞬にして過ぎてゆく。そろそろ出よっか、と伝票を寄せて帰り支度をする彼女を前に、彼は静かに言った。
「…コーヒー、男なのに砂糖入れんなって。ミルクもダサいって。猫がさ」
「…私はそういうところも好きだったよ」
今更言って何が変わるのだろう。変わったとしてどうなるのだろうか。彼女は伝票を持って席を立ち、会計へ進んだ。彼も続いて、彼女の傘と自分の傘を持ち先に店を出る。会計を済ませ、店を後にした彼女に傘を渡して彼は言った。
「ありがとな」
どれに対してのありがとうなのか。彼女は考える間も無く、気にしないでと言った。店から出ても雨は降り続いていて、止む気配はなさそうだった。
「…もし、もしもね。あのまま続いてたら、私たちは結婚してたのかな。…なんて。ごめん、ちょっと言ってみただけ」
憧れが消えないならせめて。そう言ってみただけ。あの頃にはもう戻れないとわかったうえで、期待などしていない。傘を差した彼は少し困った顔で、それでも笑顔で言った。
「結婚すんだろ? ちゃんと左手につけてやれよ」
うん。としか言えない彼女に、彼はおめでと、と見慣れた笑顔で祝う。彼女は同じ言葉を返すことしか出来なかった。
彼女が広げたターコイズブルーの傘は、先程より強さを増した雨脚によってばらばらと音を立てる。そして、それを良いことに彼女は言うのだ。
「次会うときは左手に…」
そうしたら彼はまた会ってくれるのだろうか。ん? と尋ねる彼は、雨で聞こえないのか、それとも聞こえないフリをしてくれたのか。彼女はどちらにしろ、こう答えるしかなかった。
「ううん、なんでもないよ」
金環日食はもう終わっていた。
じゃあ、またな。またね。
彼女は【また】なんて自分たちに2度と来ない日を、僅かな感情とともに雨に溶かすのだった。
Ash.