べたべたとした不快感で目が覚めた。額に張り付いた髪の毛を汗と共に拭い寝返りをうつ。携帯に手を伸ばせばそれはまだ朝の六時前で、休みだというのに損をした気分になった。かといって二度寝するにも暑く、気分が悪い。寝転がったまま左手で床を叩きテレビのリモコンを探す。指先に触れたそれを爪に引っ掛けて手繰り寄せる。テレビの電源を入れれば視界がチカチカと光った。目を閉じ耳を澄ます。「今日から東京、関東近郊ではお盆となりますが…」そんな時期か…と思いながら起床しカーテンと窓を開けた。蝉の鳴き声がたくさん、大きく聞こえてきて眉間に皺を寄せる。「相変わらず蝉は嫌いか」後ろから聞こえた声に、ム…とした顔のまま振り返る。「嫌いっていうか、慣れないだけで」「此処より田舎に居たくせに蝉を見た事がないって言うんだから驚きだよな」「東京の蝉は怖い。規模が違う。人間と同じで田舎の倍東京には住みついている…鳴き声なんてもんじゃない。あれはサイレンだよ。恐怖を覚える」何度目のやり取りだろうか。いつものように身振り手振り説明するが、衛士にはやっぱり伝わらないようで静かに肩を揺らして笑われた。「………」本当に怖いのに、と思いながら黙って立ち上がる。まだ乾ききっていないコップを掴み蛇口から水を注ぎ一気に飲み干した。そこでやっと、目が覚めて違和感に気付く。「あれ?衛士仕事は?」「今日は休み」「本当?」「嘘ついてどーすんだよ」「あはは」珍しい彼の休みに自然と笑みがこぼれた。「わたし今日から三連休だよ」「知ってる」「どーする?なにする?」「なまえはなにがしたい?」衛士が冷蔵庫に寄りかかって笑った。「家でゆっくり映画観る、ご飯一緒につくる、プール…はわたし泳げないし、えーとえーと…」指をおりながら思いつく夏らしい事を口にしていくがもう思いつかなかった。「衛士は?なにしたい?」そうだ。珍しい彼の休みだ。何かしたい事があるのではないかと、振り回すのは可哀想だとそう尋ねてみれば衛士は真顔のまま数秒黙った。「………………旅行」「珍しい!」思わず両手を合わせて身を乗り出した。彼の事だ。外出するといってもいつもの釣り堀だろうと勝手に思っていた。「なんだろうな…急にどこか遠くに二人で行きたくなったんだ」「なにその台詞!駆け落ちみたい…!」両手をぶんぶんと振り回しながらキャーキャーと騒げば、衛士はわたしの手を引いてすぐに家を出た。「衛士、わたし部屋着のまま …」見慣れたよれよれのスーツを着込んだ衛士が黙って笑う。なんだかその笑顔を見ればさして気にするような事ではないように思えた。携帯と財布があれば、わたしは、人は、どこへでも行ける。東京駅についてすぐ新幹線に乗り込んだ。「なんで北海道?」「駆け落ちといえば北だろ?」笑う衛士に「おじさんだ」とわたしも笑う。不思議そうな顔をした衛士に「今の子はわからないと思うよ」と続ければ彼は目を丸くした。その顔が可愛くて、わたしはもっと笑ってしまう。車内販売のワゴンが近づいてくる。「お腹空いたなー…」と彼の腕をつつけば衛士が「焼酎あるかな」と呟きながら手を振った。「焼酎と、駅弁、何あります?」「すみません、お弁当とアルコールの販売は先月で終了したんです…」「えっ」「えっ」とわたし達ふたりの声が重なった。謝罪を続けるお姉さんにこちらも頭を下げ続ける。「今って新幹線の中で駅弁売ってないんだね…」「酒もか…」と衛士とふたり手を繋ぎながら天井を見つめる。「………衛士、北海道についたら、美味しいものたくさん食べよう。酒も」「ああ」ぎゅ、と繋がれた手が強くなる。「もし、もし本当にこれが駆け落ちだとしてなまえは他に何を望む?」衛士の家族はもういないし、わたしの両親だって警察官の衛士を連れて行ったら喜ぶに決まっている。わたし達は駆け落ちするような障害などひとつもない。けれど。もしそうじゃなかったら。「そうだなあ………衛士とずっと一緒に居られるんだったら、貧乏でも美味しいもの食べられなくても平気かな。今だって、お腹鳴りそうだけど衛士と一緒だから楽しいよ。衛士は?」「そうだな、俺は…」
突然響いたチャイム音に体が大きく揺れた。視界を真っ直ぐ見据えればそこにはわたしの部屋の窓から見える景色が広がっていて、頭が混乱する。続くチャイム音に、わけもわからぬまま立ち上がった。玄関のチェーンを外し、鍵をあけ、ゆっくりと扉を開けば、そこには笛吹くんが立っていた。「貴様…!まだ着替えていないのか…!」「……?」「まさか今起きたんじゃないだろうな?!」「………」「笹塚の墓参りに誘ったのはお前だろう!」一瞬で、衛士が遠い昔に死んでいた事を理解した。ぼろぼろと落ちる涙を見て笛吹くんの顔が強張る。死を、わかっていて、受け入れていて、それでもどうしてか心の中の衛士は当たり前のように生きてわたしの前にあらわれる。いつだって衛士の死を思い出せばその悲しみは最初に感じたものと寸分違わずわたしの心を痛めつけた。頭の中に、心の中に衛士が居る。わたしは今だってこれからだって彼と一緒に何処へでも行ける。でも。「駆け落ち、失敗しちゃった……」泣きながらその場に蹲る。「どういう事だ、おい、なまえ…」そのわたしを心配する優しい声が、声こそが、わたし達のただひとつの現実という障害だった。
蝉の鳴き声は年々大きくなるばかりで、うんざりとする。
Ash.