揺蕩うエデン // 碧棺左馬刻
蒸暑い、夏のことだった。
遠くに行きたい。なまえがそう言ったから。理由なんてそれだけでよかった。俺たちはリュックに着替えを詰め込んで、財布と携帯と充電器に、身を二つ持って電車に乗り込んだ。
「なんか、いけないことしてるみたいでわくわくするね」
隣に座るまるで悪戯をする子どもみたいに笑うなまえが眩しくて俺は少しだけ瞳を細めた。
「左馬刻のせいだよ。あんたのせいでいけないことするのが楽しくなっちゃった」
「人のせいにするのも大概にしとけよ」
向かいの窓に映った、けらけら笑い合う俺たちを見つめる。青空の中に映し出された俺たちは、一体周りからどういう風に見えているのだろうか。なんとなしに彼女の手に触れればうれしそうに手を繋いでくれる。指を絡めてはじめて、周りに恋人だと思われるような関係。きっとそれが俺となまえの正しい関係なのだろう。
△▽△
なまえとはいわゆる幼馴染だった。物心つく頃から一緒にいて、それがいつのまにか恋愛にまで縺れこんでしまった。告白したのは向こうから。俺も俺で、彼女と一緒にいるのは楽だったし、知らない女から告白されるよりは幾分かマシだった。だから付き合った。
彼女は控えめだった。控えめで、自分の一番大事な願いは誰にも言わず大切にとっておくような女だった。十余年来の付き合いではあるが、なまえは一度だってワガママを言ったことはなかった。そんな彼女が、言ったのだ。遠くに行きたい、と。その言葉だけで不思議なことに俺の理解は充分で、任せとけと答えた。
「二時間後、駅に集合だ。準備しとけよ」
それだけ伝えればもう十分だった。なまえは大きめのリュックを背負って駅に来た。緊張と期待に満ちたその顔はあどけなく、まるで遠足にでも行く子どものようだった。そして俺たちふたりは電車に飛び乗った。
がたごと揺れる電車の中、俺はなまえとなら、どこまでだってふたりで一緒に行けるような気がした。終点で降りて、行くあてもないからとりあえず歩いて、暗くなってきたので近場のホテルを探して、朝を迎えた。
翌朝起きたときすでに彼女の様子はおかしかった。それでもなにも言い出さないのをいいことに無視を決め込んで今後について話すことにした。
「このままトウキョウにでも行くか」
「……」
首を振ったなまえは何かを言おうとしていた。俺はそれすらも無視をした。無視をして、言葉を続けた。
「イケブクロまで出れば俺の知り合いがいるからよ、とりあえずはそこ目指そうぜ」
またも首を振る。彼女の口はぱくぱくと、まるで金魚のように開閉している。
「なんだ、イケブクロは嫌か? ならシンジュクはどうだ? 世話になった先生がいるんだ」
首を振る。一体なんなんだ。いや、わかってる。なまえがなんであんなことを言ったのか。その理由が、きっと今彼女が言わんとしていることだということも。
「あー……、じゃあシブヤは」
「ちがうの、さまとき、ごめん、ごめんね」
そう言ってなまえは出し抜けに泣きはじめた。肩を痙攣らせるように、癇癪を起こした子どものようになまえは泣きはじめた。
「わたし、わたしね、引っ越しちゃうの」
「…………は、」
あんまりにも突拍子のない言葉に愕然とした。その反面、不思議なことに落ち着いてもいた。
そんなことだろうと思っていたのだ。遠くに行きたい。そう言ったなまえの表情が、今にも泣き出しそうだったのを思い出す。そうか。そうだったのか。点が線になり、妙に腑に落ちた俺をよそに彼女は泣きながら言葉を続けた。
「おかあさん、がね、再婚、するの。だから、引っ越すの。わたしも、一緒にいくの」
「やだ、やだよ、さまとき。わたし、さまときと、はなれたくない」
子どもみたいにわんわん泣きだしたなまえを、俺はただ抱きしめてやることしかできなかった。
今思えばあれはなまえが言った最初で最後のワガママだったのかもしれない。はなれたくない、と泣き出したなまえは結局のところ俺の前からいなくなってしまった。
もしあの時俺がなにか言葉をかけていたら、何か変わっていたのだろうか。その答えはきっと、あの蒸暑い夏だけが知っているのだろう。
Ash.