「逃げちゃうか」
いつもみたいな軽い調子の誘いにつられるように身一つで家を飛び出し、車に乗っている間はどこかふわふわと地に足がつかないような心地でどこか他人事のように思っていたのが、マサさんの家に着いて、生活感のある家具に囲まれた途端に現実感が追い付いて焦り出すのだから、自分の危機感のいい加減さに眩暈がした。
「とりあえず何か飲む?」
そんな私の焦りと対照的に、マサさんはいつも通りだから何だかその温度差に眩暈が酷くなった気がする。
「いや、いいです」
「何で突然敬語」
「だって、マサさん、いつも通りなんだもん……」
許嫁なんて時代錯誤なことを言い出した両親から逃げるように彼の家に来たのはいいけれど、いずれここにいることはバレてしまうだろうし、その時にどうなるかなんて分からないのに、マサさんはあまりそういうところに頭が回っていないのか、いつも通りだ。
「そりゃそうだよ。焦ったって仕方ないだろ」
「そうかもしれないけど」
「どうしようもなくなったら駆け落ちって手もあるし」
「また適当なこと言って……」
「別に冗談って訳でもない」
きっぱりとした口調でそう言われてしまうと、私も言い返す言葉を失って口を閉ざすしかない。
のらりくらりと適当なことを言って逃げていると思えば、急にこんな風に真面目な顔で思ってもいないことを言う。この温度差に慣れなくて、気付けば深みにはまっていたのだからマサさんという男は質が悪い。まぁ、そんな本心の読めない男を落とせたなんて奇跡みたいなもので、私はとんだ幸福ものだとも思っているけど。
「駆け落ちするならどこがいいかなぁ。希望はあるか?」
「うーん。あんまり人が多くない場所がいいな」
「あー、なまえはすぐ人に酔うからな」
「うん」
そんな会話をしながら、やっぱり駆け落ちなんてピンとこない。どこかの誰かの夢物語を聞いているみたいにふわふわしている。
「やっぱり駆け落ちなんて現実的じゃないよ」
「そうか?」
「うん」
「でも、憧れないか? 愛の逃避行」
「うーん、まぁ、愛の逃避行って言葉自体は夢があっていいよね」
「だろ?」
「自分がするのは想像出来ないけど」
「そんなもんか」
「そんなものだよ」
そう言いながら、家を飛び出して彼氏の家に上がり込んでるこの状況も、ある意味では愛の逃避行みたいなものなのかもしれないけど。
「これから、どうなるのかな」
「何が?」
「ただここにいる訳にもいかないでしょ」
だからって、家事は今まで家政婦さん任せだったし、職場は両親が経営する会社だったからもう行けないし、八方塞がりなんだけど。
「それは少しずつ覚えてくれればいいよ」
「マサさん、私に甘くない?」
「男は自分が好きな女には甘くなるものなんだよ」
「マサさんは甘すぎるよ」
「そうか?」
「そうだよ」
何も出来ない甘やかされて育った我が儘な女をこんな簡単に受け入れるなんてそうそう出来ることじゃない。なのに、マサさんは当たり前みたいな顔で受け入れるからそれでいいような気がしてしまう。それがよくない。彼は人を堕落させるソファーみたいな男だ。
Ash.