*様々な捏造を含みます
幼い頃から審神者である。父と母のことは知らない。私という一個の人の子が在るのだからそういう存在が私にもいるのだろう、というのが「父」と「母」なる概念に対する私の所見である。
幼子が新たな大将というので、先代の右腕だった歌仙兼定を筆頭に刀たちが多大な混乱と迷惑を被ったであろうことは想像に難くない。歌仙兼定に当時のことを聞いてみると、彼は「それはもう、豊かな水源のごとく満ち行き交う感情が奔流になるか濁流にならないか…」とすこし小難しいことを言いかけてから、「まあとにかく、大変だったね。良いことも多くあったが」と雑に纏めて味見用の小皿を私に差し出すのだった。
宴をしようと言い出したのは次郎太刀だった。
「だってさー、主が大人になったってことなんだろう?めでたいじゃないか」
「大人って…。義務教育が終わっただけ」
机仕事の処理をする片手間、ぶーぶー言う次郎太刀にやや困惑しながら返す。本日非番である彼は朝からちょっとずつ呑んでいる。戦装束とは比べ物にならないほどの軽装で執務室と廊下の狭間にだらりと寝転がっているのは大変見苦しい。
「なにさ。その義務教育とやらが終わったから主は終日こっちにいられるようになるんだろう? ほら、大人になったんじゃないか」
「終日というか…」
「アンタがこーんな小さい時から世話してきたんだよ? 慰労会があってもいいじゃんかー」
「あぁそういう…」
必要な箇所に必要な事項を書き入れながら返事をすると随分いい加減な返しになった。例えば終日というより終生という表現の方が極めて正しいし、「こーんな」と次郎太刀が示した親指と人差し指の間の空白はもはや小鳥の卵程の寸尺であったが、そういった指摘は当座の会話の進行には不必要であるので省いた。次郎太刀がこちらの反応に構わずぽんぽんと喋るのも、いい加減な返しになった理由のひとつだとは思うが。
「じゃあ一筆書くから、長谷部さんのところへ行って」
「へ? でもアイツって今主直々に静養しろって厳命受けてるんじゃ」
「そろそろじっとしていることが苦痛になっている頃合いでしょう。長谷部さんなら直近の特別収支の目処が立ってるはずだから、経理担当と厨房係と一緒に話し合って」
「……ってことは、宴会していいの?」
「それぞれから許可が出たらね。調整は全部次郎さんにお任せすることになっちゃうけど……」
まっさらな紙に慰労会開催検討の旨を書いて次郎太刀に渡す。現金なもので、ぐうたらしていた次郎太刀は居住まいをしっかり正して、この世で一番ありがたいものを戴くかのように両手でそれを受け取ると華やかな笑顔をぱっと浮かべた。
「ありがとう主! 迅速な判断と指示、大人になったって実感するねえ。ちょっと前までは『本丸にいるとお友だちと遊べない!』ってべそかいてたのに」
「ふふ……小学生だった頃の話でしょう」
「アタシらにとっちゃつい最近さ。こんなに沢山の書類も捌けるようになって」
「……次郎さんが言うところの大人になったから今までの特約分の仕事を請求されてるの。悪徳業者みたいよね。次郎さんも手伝ってくれる?」
「よーし!いってきまーす!」
バタバタと賑やかに廊下へと出ていった次郎太刀の足音が遠くなっていくのを聞きながら、仕事の続きをしようと改めて文具を握った。
義務教育終了に伴う特約の解除、今日までの当本丸運営が大多数の他本丸でも実施可能なものであるだろうという意見書、関わりのあった政府役人への御礼状、他諸々。紫計画などと婉曲せずに「後釜に幼児を」計画とでも名付ければ良かったのにと考えないでもないが、魁は魁らしく、ただ後進の道を拓く糧となるべきなのである。
「……良かったのか」
ぼそぼそとした声がした。次郎太刀がいる時も、その前からもずっとこの執務室にいた大典太光世のそれには、少量の不満が伴っている。
「義務教育終了おめでとう会なら固辞したけれど、慰労会なら私にそれを反対する理由はないでしょう。実際たくさん苦労をかけてきたし、これからもかけるだろうし……。大典太さん、そこの例規集取ってください」
「どれ?」
「分厚い書簡。山吹色…ソハヤさんの髪みたいな色の表紙の」
「あぁ、これか。手を、……いや、そっちの机案に置くよ」
「ありがとう、大典太さん」
差し出した空の左手にすこし申し訳なさそうな気配を寄越しながら、大典太光世は例規集を私の机案に置いた。私ならば腿の上に置いて展くようなそれを、大典太光世は質量を感じていないかのように片手で軽々と運んでみせる。こういう場面を見ると薄い膜を取り払ったみたいに分かりやすく、私と彼らの関係性に歪を覚える。
「どうせ俺たちの一瞬の苦労など、そう大したものじゃない」
先程よりも近い場所に腰をおろして、大典太光世はそう言った。
「でも、私にとっては人生のすべてだし……」
相変わらず日陰を選んで留まる彼に、僅かでも日光が当たるよう半蔀の前の物を動かす。ついでを装ったそれに気づいたのか気づいていないのか、大典太光世は肩に差した日光を避けるように体躯を傾けた。
「……あんた、逃げなくていいのか」
「どこからー?……本丸から?」
「……ここにいてもどうせろくなことにならない。あんたがここに縛られながら生きてきたのはあんたの意思じゃないだろ。……人の一生ってのは短い。そうだろう? あんたの命数が尽きるまでにこの戦いが終わるとは、どうせ政府の誰も思っちゃいないさ。あんたが十五年生きてきた世界にもどったほうがいい」
「……大典太さんは、なんていうか……。……ちょっと過保護だと思う」
ありがたいなあって思うんだけれどね、と筆をすべらせながらもぞもぞと唇を動かす。「ごめんなさい、すこし待って」とも呟いた。例規集の字はいちいち小さい。目当ての段落を見失うのは御免蒙りたかった。今だってこうなのだから、歳をくったら大変そうだ。
大典太光世は律儀に私が筆を置く瞬間をひたむきに待っていた。あんまりに静かなのでそこにいるのにいないみたいだった。今までこういう優しさを享受し続けてきたのだ。山積みの書類に一度別れを告げて、お互いの体の正面を向け合う。険しい顔は、怖くはなかった。
「……あとのことはどうとでもしておく。どうせ、どう転んでもここよりも俺に、置物に似合いの場所にいくだけだ。あんたはあんたの場所に帰るといい」
「もう。そんなこと言わないで」
「……あんたの世界はもっと広いだろ」
「そうかもしれない。……たしかに私が望んで審神者になったわけじゃないけど。待ち望まれていたのは私っていう個じゃなくて『審神者』だって、理解もしてるけど。でも私は自由の内から選んだつもり。ほら、人の一生は短いから。長い間待ってくれたあなたたちの審神者になりたい」
「…………」
「絶対に出ていかない」
しっかり意志を突きつけるように伝えたとき、大典太光世は珍しくまっすぐ私の目を見ていた。数秒そうしていて、「……そうか」とだけ言うのと彼がまた俯くのはほとんど同時だった。
私は嬉しいような、悲しいような、愉快なような、不思議な気持ちになっていた。歌仙兼定に訊けばこの心情が適切な名前があるものかどうか教えてくれるだろうか。机案から山吹色の例規集を両手で取って、大典太光世の肩に触れられそうな距離に座った。
「……言うこと聞かないから、怒った?」
腿の上で展いて、索引の頁をすーっと指でなぞる。やはり字が小さい。一度では目的の項が分からなかったので、もう一度、今度はやや慎重に字を追いかけた。
「……本気だった。だが、どうせ俺の言うことなんて聞きやしないだろうとも、元から思案していた」
「そう思ってても、私に言ってくれたのね。ありがとう」
「……おい、目当ての頁はこれじゃないのか」
「流石」
ざっくり紙を持ち上げるようにして例規集を展く。致し方ないと甘受していたものの、やはりこれらの手続きは煩雑すぎるのではないか。後進たちのときにはもっと簡易なものになるよう働きかけなくては。これでは落ち着いて大事な刀たちと話すこともままならない。
「……ねえ、大典太さん。私はきっと大丈夫よ」
「…………」
「ただ、うん、もしどうしようもなくなったら、そのときはいっしょに破滅してくれる?」
「……ああ」
Ash.