寒さの中に春めいた風が混ざり始める。桜の花の芽吹き始め、そのわずかばかりしか知り得ない香り。直接色々な感情をなでていく不思議な香り。鼻の奥がつんとする。少し眩むような。
「みょうじはどこ行くんだったっけ。」
校門にもたれかかっている萩田くん。その表情はいつもと変わらない、ううん、『いつも』とは違う、ただ『私と話すときだけ』と変わらないけだるそうなそれに見える。
この三年間で私は萩田くんにまとわりつくように過ごしてきたと思うけど、いつだってほんとうに大事なことを話すことはなかった。さりげない幸せばかりを話したといえば聞こえはいいし美しいが、結局それは私の小心ゆえのものだった。たぶん。
萩田くんはまるで休み時間廊下ですれ違ったのかってぐらいのことをたずねたけれど、実際には私の進路を聞いているのであって、それからもいかに私たちの関係が浅かったかがうかがえる。だってもう、明日には萩田君と永遠にばいばいなのに。
「私、県外に出るよ。」
「そう。」
萩田君はうつむきがちの姿勢で、でもとりあえずこちらに顔を向けてはくれる。そしてこの会話は片手間ではない。『いつも』のように難しそうな本をよみながらではない。最初はそれが嬉しくて仕方がなかった。私だけ特別なんだって、そう錯覚していたときは自分が世界で一番劣っていたっていいんだなどと幸せだったけれど、それは勘違いで、実際私は世界で一番バカだった。彼が片手間なのは逆に気を遣っていないから。私は気を遣うべき他人で、ないがしろにできない分きっとめんどくさかったことだろう。
「萩田君は、どこに行くの?」
本当は知っている。萩田君は医学部を売りにしてる、私なんかじゃ到底受かるはずもない大学に行くんだ。アズから又聞きしたのであって本人からは聞いていないのだから、私は知ってるはずがないのだけど。
「・・・すげえ遠い。A大行く。」
少し言葉を探すようにして、萩田君は予想通りの答えを言ってくれる。
「へー、すごい!さすが萩田君だなー。医学部?」
「うん、まあ。」
「お医者さんになりたいんだっけ」
「とりあえずね」
もうこれ以上ふくらませる会話が見当たらなかったから、やっぱり萩田君は私と違うなーと呟いた。
萩田君が何か言いたげなのが伝わってくる。きっとこのわけのわからないやり取りに疑問を持っているにちがいない。もしかしたら本題にも気づいているかもしれない。何があるでもないのにいきなり呼び出しだなんて、もう結末は見えているというもの。それでも来てくれたのだから希望を持つべき?だけど萩田君は私の頼み事にNOと言ったことはなかった。私も、そう大したことは頼んだことがないけど。
とりあえずそっかそっか、と薄くて何に対して言ってるんだかわからない相槌をうって、また薄い問答を続けようかというとき、萩田君がぽつりと言った。
「みょうじは桜が好きなのか?」
一瞬何を言われたのかのみこめずに、何度か再生。
「うん、まあ好きかな」
嘘ではない。嫌いじゃないし。ただ、萩田君は私がさっきから桜を見上げているのだと勘違いしたのだろう。けど実際のところは違う。私には頭をフルに使っているときに少し上に視線がいってしまう癖があるっていうそれだけだ。桜よりも、気の利いた言葉が浮かんでないかということの方が数百倍も興味があっただけなのだ。
萩田君が少し微妙な顔をする。やっぱり挙動が不審すぎるな私。ああどうしよう痛いくらいに吐きそうなくらいに考えているのに、何を話すか全然思いつかない。もう本題に入った方がいいんだろうか。そのために今日は呼び出したんだから。
「あ、あの・・・」
「みょうじはさ」
「う、うん?」
「みょうじは何が好きなんだ?」
「えっと・・・?」
あまりに唐突な質問。これは、しびれを切らして、さっさと告白させて振って帰ろうとかそういうことを暗に示されているんだろうか。
「・・・好きな食べ物、好きな曲、好きな・・・教科、とか。今更遅すぎかもしれないけど、俺みょうじのこと何も知らねえなって思って。」
「そ、そんなことは・・・」
強ち否定できないな、と思った。
「みょうじといるとさ、なんか変に緊張して」
少し目を伏せる萩田君。変な気持ちだった。残念で仕方ないはずなのに、たくさん話せばよかったのに、心配してる暇じゃなかったのにって後悔すればいいのに、とても安心して穏やかな気持ちだった。
「私も。私も萩田君といると緊張して・・・あんまり自然に話せなかったな」
「・・・ごめん」
「なんで萩田君が謝るの」
自然と笑みがこぼれた。それを見て、萩田君もわずかに表情をほころばせる。
あ、こんな風に笑うんだ、って観察してしまうくらい、少しはにかむようで可愛い笑み。こんな笑い方、どんなときだってしてなかった気がする。
それにしたってなんておかしいんだろうか。萩田君が私を嫌いじゃなかったこと、笑い方。今更になってたくさん新しいものが転がっているのを見つけるなんて。
少し、視界が揺らいだ。はっとしたような萩田君の顔。
「みょうじ?」
「・・・次会うのっていつかな」
クラス会?成人式?一体いつの話だろう。
「会えばいい」
ぽつりとつぶやかれた言葉。どうやらそれは私に投げかけられたもののようで、しかも今度こそ前向きに受け止めていいんだって確信して、頷いた。
「じゃあ、いつか近いうち、言いたいことがあります」
「・・・今日は?」
「・・・萩田君桜似合うね。かっこいい」
「今更だな俺は生まれてこの方桜が似合わなかったことがないぞ」
馬鹿みたいに笑いあって、遅すぎる春の到来を感じた。
花のただなかでいきるひと
Ash.