「このハンガー使いなよ」

お姉さん、と声を掛けられた。手には店の備品。どうやら、足元の巾着の所在について口を出しているらしい。いいよ、こんなのは元から汚れているのだからと、手をひらひらと振る。

「それならその鞄を掛けてあげるでござる。床の上は汚いよ」
「これはアンタのでしょう」

そうだっけ?至極真っ当な指摘に妙な格好の男はふかふかと笑うと、隣の席に座り込んだ。ああ、一人で呑みたい気分だというに。女扱いをされているのだとしたら御免だ。それとも警戒心の欠片もないのか、かぶき町に溢れる酔っ払いは飽きずに人の世話を焼きたいらしい。

「拙者はねえ、酔っ払うくらいじゃないとお姉さんみたいな女の人とお喋りできないからねえ、今日みたいに寂しくなるとがぶ飲みだよね」

ああ、やはり女扱いだ。それはこの酒の席では求めてもいないものだった。冷めた目つきで席を立とうとして、そこで初めて肩から覗くものの存在に気付く。侍、と口に出る寸前の失言をぐっと呑み込んで、浮かしていた腰を静かに落ち着けた。ああ、今のこの場は、侍と人間であった。男と女ではなかった。しかし、それからは不幸なことに男はお喋りな性分であった。赤の他人には理解できない内容も多かったが、話を聞くと全くの赤の他人にも分かるほどに周りの人間に甘やかされて生きているような奴だった。酔えもしない私はここですっかり隣の男を放って帰りたくなっている。

「何か言ってよ、お姉さん……ねえ、呼ぶ度に顔をしかめないで」
「……女を自覚して嫌なんですよ」

だけれど名前なんか教えてくれないでしょうと男が笑うので、その笑顔になんだか胸をきりきりとさせながら「みょうじ」と名乗った。勿論偽である。

「なんで苗字?」

可笑しそうに眉を寄せる男は真似をするように、拙者は土方、と頬を緩めた。きっと偽名であろう。こちらももっと斜に構えた名前にすればよかったかもしれない。

「それならなまえ」
「トッシー」
「……あだ名はずるい」

すると、名前でござるにと唇を尖らせたので、私は改めて江戸という都市部とは距離を置きたいと思う。土方さんは、とぽつりと話し掛けようとして、苗字でござるかと修正が入ったのでやり直し。

「あなたみたいな酔っ払いが、」

大概に酒呑みだ、そう思いながら、どうして侍をしているのと尋ねる。そんな刀なんかを携えて、未だにそれを私に振るうこともせずに肩を並べ、数十年使い古した脳から命令を下して言葉を交わしている。果たして私の粗相を待っているだなんてことがあろうか。それとも、少しくらいならば女だからと油断されているのか。

「侍ね……護るものがあるらしい」
「死にたくないからじゃなくて?」
「死にたくないからだなんて理由は、納得できないよ」

そうね、と適当に相槌を打った。死ぬためにという訳でもないらしい。護るものがある、護りたいから……頭の中で繰り返すが、暗闇にピントは合わずにぼんやりと自分しか浮かばない、他に誰も居ない。そんなものに恵まれなかった人間は、きっとこれからそれを見つけにいけばいいのだろうけれど。

「なまえ氏は、お通ちゃんを好きでござるか」
「……アイドルの?」
「知り合いが彼女のファンらしい。明日には公式ファンクラブが出来るんだって」

楽しそうね、と言う他ないが、黙ってしまった男は優しい目をしている。

「見ているだけでも楽しいよ」

見る?

「生放送さ、よかったら観てよ」

静かに首を傾げた。そこに何がある?……なまえ氏もきっと欲しがるものだと、トッシーは小さく微笑んだ。それから、きゅっと唇を噛んで押し黙ったかと思うと、朝が来るまで手を握っていてだなんて最も苦手とすることを言い出した。

「もうすぐ閉店時間だ」
「……手持ち無沙汰で、なまえ氏に頼るしかない」
「人の手で紛らわさないでほしい」

そう呟きながら席を立った私が清算を済ませる隣で、トッシーはいやに控えめに両の手を差し出した。「もうすぐ日曜日でしょう?お願い、」私は、このままの生活を続けていく理由を見つけたいと思う。終えてしまうには惜しいと、そう思える?本当に?「右と左、どちらにしようか」丸腰過ぎるそんなほんの少しの期待が、帰ってしまえばよかったのに、グローブに包まれたへんてこな手を取ってしまった一番の理由だ。

「さて、今からホテルでいいの?」
「……手だけでいいでござる。軽率な発言はしないことをお勧めするよ」

それは男と女の自然現象だとばかり思っていたのに、まるで人間と人間のようで、私は繋いだ手をぐんっと回したのだ。

Ash.