桜は入学式を待たずに散ってしまった。初めて迎える古都の春。東京で出逢った私たちは、秋田と京都という遠距離恋愛を選択した。同じ学校に進学するという発想は、どちらにも無かった。他人によっては不可思議だと首を捻るだろう。彼は選手として、私はマネージャーとして、お互い部活が忙しかったこともあり、一緒にいる時間より精神的な繋がりを大事にした関係だった。これが怠惰だと言われてしまえば、返す言葉もない。
「そっちはどう?やっぱり寒い?」
「…ん、まだわかんない」
気の無さそうな低い声に、スナック菓子を貪る音が続く。咀嚼音に、黙って耳を傾けた。敦らしい、と思いながら。
「気候なんて毎年違うし」
私が返事をしなかったので、敦が言い訳めいたことを口にするはめになった。凡そ彼らしくない気遣い。
「逢いたいなぁ」
本音が、零れた。けれど私は自分の進学先に後悔はしていなかったので、随分乾いた独白になった。
「この間、逢ったばっかじゃん」
電話の向こうで、包装袋をあさる音。私は注意深く耳を澄ます。何でもないことのように、敦は言う。
「俺だって逢いてーよ」
楽園を神の御膝元だと定義するならば、私にとっては、帝光中学校だろうが、洛山高校だろうが、何処だろうと直ぐにエデンに姿を変えた。条件はただひとつ、征十郎が選んだ場処であること。
「敦とは上手くいっているようだな」
「お陰さまで」
どうやら、短い休み時間に同郷のクラスメイトと雑談する人並みの感覚は征十郎にも残っているらしく、穏やかな表情で声をかけてきた。まだ見慣れない濃灰色のブレザー。机の上で組まれた、手入れの行き届いた指先。
「敦、陽泉でもお菓子ばっかり食べてるみたい」
流石に一言では素っ気ないかと思い、どうでもいいことを言い添えてみる。私達の目的はあくまで時間を潰すことなので。
「相変わらずだ」
ひっそりと、征十郎が笑う。キセキの世代と呼ばれた伝説のチームの、要だった青年。私は彼を追って此処に来た。例えば、目下私が一番好いている人は恋人である敦であり、その存在は何ものにも替え難いが、敦と征十郎のどちらかしか助けられないならば、私は迷いなく征十郎を選ぶだろう…と、思う。他人に理解されることの少ない、私達の有り様。服従というより、信仰に似ていた。純粋で綺麗で、安心なもの。
今までが嘘のように、高校生になってから、私と敦はマメに連絡をとっている。あの頃、毎日逢えるという安心感が私達に色恋沙汰を疎かにさせていたことは確かだ。遠距離恋愛、万歳。寂しくないと言えば、嘘になるが。
「部活のみんなと上手くやってる?」
「まぁ、普通に」
「もうすぐだね、インハイ」
「んー」
「征十郎から、連絡あった?」
「んー」
部活のことになると、あまりに敦が気のない返事ばかりなので、私は探りを入れるのもアホらしくなって、どんどんストレートな質問になっていく。
「出るな、って言われた」
私が知りたがっていたことを察した敦が、まるで普通のことのように言う。
「出ないの?」
「うん」
多分これは異常なことなのだ。私達にとっては当たり前のこと。当たり前に異常なこと。敦は征十郎に逆らわない。別に敦に限ったことじゃなく、征十郎の周りにいる人間は、大抵無条件で彼に従いたくなってしまうのだ。
「赤ちんにお願いされたら、断れないしね〜」
のほほんとすらした調子で、敦は言う。私は絶句してしまった。彼はあれを命令ではなく、依頼だと捉えているらしい。
逢いたい逢いたいと頻繁に口にしあっていたわりに、私と敦が実際に顔を合わせたのは、年の瀬も間近に迫った師走の下旬、ウインターカップが始まってからのことだった。帰省の日にちが悉く合わなかったのだから仕方ない。友人たちからは、有り得ない…だの、そんなの付き合ってるって言わない…だの、散々な言われ様だったが、色恋沙汰なんて、当事者に不満がなければそれでいいのである。来る大会に向けて、今はライバル同士という意識も当然あった。私はあの頃と変わらず、マネージャーとして征十郎に尽くし続けている。
「敦、また大きくなった?…縦にも横にも」
「…太ったって言いたい訳?」
「いひゃい!いひゃい!」
敦はわざわざ屈んで私の両頬を摘まんで引っ張り始めた。見馴れない、紫袖のジャージは彼の為に誂えたようだ。そしてこちらは相変わらずだが、目を見張る程に背が高い。制裁の為とはいえ、目線を合わせてくれたのが嬉しくて、彼の頭に手を伸ばした。
「あーあ、嫌だなぁ、赤ちんとやるの…」
まるで他に敵がいないような口振りだった。勿論、お互い一回戦の相手ではないし、トーナメントを見る限りでは、決勝まで勝ち進まなければ対戦することはないというのに。
「そうなったら敦と征十郎、どっちを応援するか悩むなぁ…」
私たちの会話はあまりにも傲慢かもしれない。けれど、この会場に負けるつもりで来ている選手なんて一人もいないのだから、このくらいが丁度いい。
「そこは赤ちんでしょ」
敦の長い指が、いつの間にか頬から離れて頤に掛けられている。人差し指が、唇を辿った。
「俺たち今、敵どーしだよ?」
絶対、なんて存在しないのだということを、私はいつも忘れる。多分、征十郎の傍に長く居すぎたせいだろう。陽泉が負けたあたりから、嫌な予感はしていたのだ。ただ、それが現実のものになるとは、夢にも思っていなかっただけ。
「ご苦労だったね」
閉会式を終えて、移動用のバスに乗り込む頃には、征十郎は穏やかな顔をしていた。どこか清々したようにも見える。付き合いだけは長いから、私はこちらの征十郎も覚えがあるので、あまり違和感を感じないけれど、他の部員たちは征十郎を遠巻きに見ていた。準優勝に終わった結果のせいかもしれないが。
「今まで悪かった」
謝罪だなんて、あまりにも征十郎らしくないことを征十郎が口にするものだから、私は移り変わる景色に眼を奪われているふりをすることしかできない。一体何が「悪かった」のだろうか。私はただ、彼が用意したエデンでぬくぬくと暮らしていただけなのに。
「もう十分だ、ありがとう」
労いの言葉は、決別の祝詞によく似ていた。私の隣でミネラルウォーターのボトルを傾けるこの青年は、最早私の神ではない。
今年の桜も、来月までは持たないのではないだろうか。あまりにも景気良く咲き誇っているのを見ていると、心配になる。春休みを利用して、実家に戻った。新学期が始まるまでは、地元で過ごすつもりだ。あの日以来すっかり険の取れた征十郎の人気は留まるところを知らず、校内で信者を増やし続けている。今も、彼はあの体育館で練習しているのだろう。私がもう数ヵ月、足を踏み入れてない場処。
「久しぶり〜…あれ?縮んだ?」
待ち合わせの相手は、黒いキャップを被って現れた。往来では見間違うことは無いだろうと思わせる、異常なほどの長身。
「敦が大きくなったんじゃない?…縦にも横にも」
言い返される前に、お土産に用意してあった京都でしか買えないじゃがりこを敦に押し付けて、にっこり笑ってやった。
「…マネージャー、辞めたの?」
敦は早速私が渡したばかりのお菓子の封をきると、徐に口火もきった。いずれはその話題に触れるつもりだったが、まさか再会して一分以内に持ち出されることはないだろうと油断していたことを少しだけ後悔する。
「誰から訊いたの?」
「赤ちんしかいなくない?」
「だよね」
「赤ちん、気にしてたよ」
へぇ、珍しい。そう嘯こうとして、やめた。以前の征十郎なら兎も角、今の赤司征十郎は謂わば最初の征十郎であり、即ち身近にいる人間の感情の機微に気を配ることくらい朝飯前なのだ。
「まだ、辞めてないよ。退部届出してないし…」
いずれ、書かなければならないとは思っているが。
「一緒だ」
敦がマイペースに歩き始める。このまま宛もなく二人でふらふら歩いて、目に入った美味しそうなカフェやお菓子屋に立ち寄るのが、お決まりのデートコースだった。こんな何気無い過ごし方も、殆ど一年ぶりだと思うとやけに感慨深い。
「俺もまだ辞めてない」
私はハッとして敦を見詰める為に顔をあげた。首が痛い。この恵まれた体格を活かす為だけに彼はバスケットボールをやっていたのだ。宗教じみた感覚で、無意味にマネージャーに甘んじていた私よりいくらか純粋な理由だろう。
「…敦が私と付き合ってるの、征十郎に言われたからでしょ?」
「そっちこそ、似たようなもんじゃん」
今更何言ってるの、って。敦は拗ねたように唇を尖らせた。どうして征十郎が私たち二人をくっつけたのか、今ならほんの少しだけわかるような気がする。
「今が幸せなら、それでいいじゃん」
そんなことを小声で呟いて、敦は照れ臭かったのか早足になった。
「…征十郎に感謝しないとなぁ」
敦のことも含めて、それ以外のことも、色々と。実質、主将が変わったようなものだから、うちのチームはこれからどんどん変わっていくだろう。おそらく、良い方向に。残念ながら、私がよく知る方の征十郎とは、この先なかなか逢えないのだろうけど。そのことによって私の超個人的な楽園が終わりを告げても。高校生活は、あと丸二年残っている。
「部活、辞めないでね」
軽いお願いのつもりが、思いがけず真剣な懇願になった。敦はキョトンとしてみせた。
「…なにそれ、命令?」
あの征十郎からの指令は依頼として軽く受け止めていた癖に、恋人からの簡単な要望は命令扱いするなんて、どういう神経してるんだろう、この男は。私は力無く笑う。敦も征十郎も抜きで過ごす、永遠に等しい二年のことを思うと、柄にも無く泣きたくなった。
Ash.