それは突然だった。
気がつけば、鋭い牙をちらつかせた見るからに獰猛そうな怪人が、今にもわたしを食い殺さんと目の前に佇んでいた。怪人、というよりかは怪獣、と言った方が正しいような気もした。それほどに、この化け物は、もはや"人"とは呼べないほど、人間離れした容姿をしていた。周りにいた他の一般人たちは、ほとんどがすでに逃げ出している。見えてはいないが、空気でなんとなく分かった。今のわたしは、目の前のけものから、一瞬たりとも瞳を逸らすことができなかった。

(……震えてる)

無意識のうちに、かたかたと小刻みに振動していた自分の肩。落ち着かせるように右手で左腕を擦る。そうだ。恐れる必要など、今のわたしには全くもって皆無なのだから。わたしは何度も自分に言い聞かせて、深く呼吸をしたあと、覚悟したようにゆっくりと両目を閉じた。

今日こそ、わたしは死んでしまおうと、自分自身でそう決めたのだから。







「…サイタマさん」
「何?」
「人生って、なかなかうまく、いかないものですよね」

意外とがっちりとした彼の背におぶわれながら、ぼんやりと夕焼けが滲む空を見つめる。わたしの問いに、彼はあまり興味がなさそうに「あー、そうだな」と抑揚のない声で呟いた。

彼、サイタマさんとはついさっき、初めて出会ったばかりである。それなのに、どうしてわたしは彼におぶわれているのか。そして、どうしてわたしはまだ生きているのか。話は30分ほど前にまでさかのぼる。

あのとき。あの恐ろしい怪人に殺されそうになったとき。死を覚悟して瞳を閉じたわたしは、暗闇の中で、ドォンというまるで耳を劈くようなけたたましい騒音を聞いたのだ。反射的に目を開けると、先ほどまで意気揚々とわたしに襲いかかろうとしていた怪物が、尋常ではない致命傷を負って倒れていたのだ。何事かと目を白黒させていると、ひらり、視界の端に黄色いものがうつった。

『大丈夫か?』

気の抜けたような表情をしているこの男が、まさか、怪人を倒したのか?全てを理解した瞬間、わたしは人生何度目か分からない絶望に包まれた。

(ああ。また、今日も死ねなかった。)


そのあとは、足を怪我しているわたしをサイタマさんがおぶってくれた。我ながら、なんて素敵なヒーロー物語なんだと笑えてしまう。女子高生の命の危機に颯爽と現れ、一発KOで敵を倒す。きっと、助けられる対象がわたしでなかったなら、これは素敵な救出劇として締め括られていただろう。

「サイタマさん」

しかし、残念ながら、相手はわたしだ。サイタマさんには悪いが、わたしはあなたを英雄視することはできない。

「何だよ」
「どうして、わたしなんて、助けるんですか」

彼と同じように、わたしも抑揚のない声で呟いてみた。
わたしはあのとき、他者の助けなど、少しも求めてはいなかった。なぜなら、わたしはあのとき、あの場で、あの怪物に殺されて死ぬことを望んでいたからだ。そう決めていた。心から。それ以外にはもう何もないと思っていた。それなのに、わたしの願いに反して、サイタマさんは突然現れた。そう。まるで、ヒーローみたいに。
サイタマさんは、どことなく困ったように「んなこと言われても……」と言い淀んでいた。それもそうだ。彼の職業はヒーローだから、怪人を倒すのは息をするように自然なことであるのだ。
相変わらず、ひたすらにわたしをおぶったまま、歩き続ける彼に再び話しかける。

「サイタマさん」
「…何だよ」
「安易に、人を助けない方がいいですよ」

なぜならそいつは、自ら死を希望している者かもしれない。そんな人たちにとって命を救われてしまうというのは、そして、中途半端な正義感というのは、邪魔者以外の何でもないのだ。

「わたし、あのとき、死のうって思ってたんです」
「……」
「やっと死ねる。そう思ったのに、あなたが怪人を倒してしまったせいで、わたしは死ぬことができなかった。結果として、あなたはわたしの命を救ってしまった。これって、命を奪うことと同じくらい、重いことだと思いません?」
「……あのー、何が言いたいんでしょうか」

冷や汗をたらりと流したサイタマさんが、ぎこちなくわたしを振り返る。わたしはにこりと、渾身の笑みを浮かべながら、彼の耳元でしっかりと囁いた。

「家もない。家族もいない。そんなわたしを、あなたが勝手に救ってしまったんです。責任をとるためにも、これからはあなたが守ってくださいね」
この死に損ないのわたしを。

そう言うと、サイタマさんは顔を真っ青にして「ははは……」と力なく笑った。

Ash.