人差し指と中指を使って数回、音が聞こえないほど柔く叩いたフィルターは、一センチの長さを保った灰をぽそり、クリアガラスの灰皿へ落とし込んだ。それはスローモーションのように、ゆっくりと流れる動作で再び口元へ運んでは、葉をちりりと燃やして紫煙を身体に取り込んでいく。立て膝を崩さず煙草をくわえたままの体勢で、愛用の一眼レフを手に取りアイカップを外す。ブロアーを使って各所の埃を取り除いていると、いよいよフィルター間近になった煙草を指の腹で押し付けて火を消した。溜まった肺の中の煙を細く吐き出して一息ついてから、椅子の背凭れ部分に手を掛けてわたしをじっと見ている陽介を視界に映す。
「いつも思うけど、見てて面白いの?」
作業中は無言を貫くのが常であるため、たとえ部屋に自分以外の人間が居たとしても構うだけの余地はない。だから今回も連絡していなかったし、来たところでつまらないよと前置きしたのだけど。掛かってきた電話の向こう側、陽介はけらけらと笑いながら「おれが会いたいからなぁ、仕方ないっしょ」と言うのだった。そうしてわたしの部屋へとやって来た陽介は、相変わらずのへらへらした薄い笑顔で挨拶もそこそこに、冷蔵庫の飲み物を適当に漁る。この無遠慮さが不思議と心地好いからか、わたしの方も陽介の相手をするでもなく作業に没頭するのだ。毎回とは言わないが何度か今日と同じ場面があったなと思い返して、だから何となく聞いてみただけ。
「面白いってーか、見ていたいだけっつーかな」
「陽介って実はロマンチストだよね。出水君だっけ、あの子とかと遊んでるときは年相応にはしゃぐのに」
「なまえさんの雰囲気に呑まれんのかも。だからここに来たくなるんだよなぁ」
おれこの空間すげぇ好き。切れ長の目の奥、大きな黒い瞳をいっそう細めて言うものだから「何もう可愛いなぁ、本当に」と、ごく自然に滑らかなほど心の声が表に出た。一回り近く離れた歳の男の子が可愛い対象となるのは致し方ないことで、最初の方こそ可愛くねーし、と反発していた陽介は、言葉を借りるならきっと雰囲気に呑まれたのだろう。いつしかわたしの言う、性が男である人に向けるには不釣り合いとも取れる形容詞を、くすぐったそうにしながら受け入れるようになった。
構って欲しそうな顔の陽介に疼くものはあるが、作業を中断するのはどうしても好きじゃない。後ろ髪を引かれる思いで再び、手中のカメラに集中する。視界から陽介の顔は消えて、申し訳程度に見えているのは白い靴下。学ラン姿であるから学校帰りのその足でここに来たのだろう、親指の辺りが少しだけ黒ずんでいるのも可愛らしい。本来なら同学年の女子高生達とカラオケやらで騒いでいるはずなのに、わたしの動かす手から生まれる小さな作業音と、窓を隔てた外で流れる防災無線の定時放送がぼやけて聞こえる世界に居るだけで構わないなんて、つくづく変わっていると思う。
一番大事なレンズの手入れもしっかり行い、セッティングし直してぐるりと見回す。やり残した箇所がないか抜かりないチェックをして問題がなければ、心の中で合格を出す。傾けた時にレンズが夕日を乱反射した光が思いの外眩しくて、片目を瞑ると喉の奥から出すような、くつくつと控えめな笑い声が聞こえてきた。
「なあに?」
「いやぁ、なまえさん良い顔してたなって。妬けるわ」
「無機物を相手に入れないでよ」
やれやれ。嫉妬の言葉すらも可愛いだなんて、年下というのはこんなにも存在自体が暴力なのだろうか。これ以上わたしに攻撃を仕掛けてこないでほしい、一応は大人として自制している部分があるというのに、これではメッキの如くぽろぽろ剥がれてしまう。
一般的な思春期を迎えて数年経つとは言え、成長著しい男子高校生はなるほど、三日会わないだけで随分と変化するのだろう。立って並べばわたしの目線は陽介の薄い唇辺りをうろうろするし、華奢なように見えてしっかりと筋肉が付いている体躯は逞しく、いざとなればわたしをどうこうするのにまったく苦労しないはずなのに。若気の至りだとか青い春を謳歌する者にしか使えない語句とは程遠い位置にいるらしく、わたしと時間を共にしている時の陽介はとても落ち着いて見える。
「妬いたなんて嘘ばっかり。いつもの顔で笑ってるじゃない」
「じゃあさ、確かめてみてよ」
ボーダーという名を冠する風の噂で聞いた。陽介の成績は下から数えた方が早いそうだが、無邪気な体で相手を誘い込む切り返しを一体どこで覚えて来るのだろう。挑発と呼ぶには些か未熟な言葉に易々と乗るのもどうかと思うものの、構いたくて仕方なかったわたしは、目の前に伸ばされた両手がただ愛しくて、素直に従うことにした。
椅子に逆向きで座ったままの陽介に近付いても、背凭れが邪魔をして直に触れることは出来なかった。回り込むのも待てないと言いたげな、しなやかで雄々しい両手はぎゅうとわたしの腰を回り、程好い力で締め付けてくる。ちょうど鳩尾に当たる陽介の頭は柔らかく押し付けられており、表情は隠されてしまって見えないのがもどかしい。ぴたりとくっついたままの甘えた体勢にくすりと笑みを零して、ほんの少し乾燥で傷んだ黒髪に自分の手を差し込みながら、するりとカチューシャを外せばはらりはらりと落ちていく。癖がついてしまった額の生え際を撫でて梳かして、ゆっくり腰を折り曲げてから旋毛の先に恭しく口付けを落とす。リップノイズを合図に顔を上げた陽介の顔は、眼前のお菓子を我慢する子供のそれと同じで可愛さの限界を知らない。余裕を見せるわたしに反抗したかったのか、腰にあった手をわたしの後頭部に添えて顔を引き寄せると、強引に舌を捩じ込んで来た。若さゆえの焦りにも似た必死さが、何処かへ置いてきてしまったわたしにはない青さが、いつも懐かしい匂いときらめきを蘇らせた。
「ふふ、陽介可愛いよ」
「……ちぇ。なまえさん手強いなぁ、寂しいのおれだけかよ」
「そんなことないって」
「またすぐ写真撮りに行くんだろ? あーあ、おれも付いていけたらいいのに」
年齢差というものはどうしても残酷な響きを伴うが、こと陽介との関係においてはむしろ絶妙なスパイスに思えるのだから、年を取るのも良い。先を生きてきた余裕で覆い隠しているだけで、連れていけるものならその通りにしているよ。惜しいな、もう少し身体が小さかったら詰め込んで持っていくのに。こんな馬鹿げた思考を巡らせていることに終ぞ気付かない陽介は、不貞腐れた顔をしながらわたしの肌に指を滑らせていく。頬を撫でるかさついた指先は、そういえば以前なら少し震えていたなと、数ヵ月前の記憶を思い出した。未だに色褪せることなく鮮やかに映る二人きりの映像、その舞台はいつもこの四角く切り取られた空間だ。主な理由は仕事以外で外に出たくないというわたしの我儘と、あと一つ。誰にも邪魔されない密室でなら、教育に悪いという後ろめたさを感じることもなく自由に出来るから。そうだ、今まで文句の一つも言わずにここへ来てくれていた陽介には、ちゃんとご褒美をあげなくてはいけない。
「ねえ。二人で写真撮ろっか」
「……やっぱおれと離れてんの嫌なんじゃん、なまえさんひねくれてっからなー」
「ふーん、生意気言うの珍しいね?」
「まあね。だっておれはどう足掻いたって年下、だからさ」
切なげに歪んだ顔もそそるけど、荷物と一緒に詰め込みたいからどうかカメラの前では最高の笑顔を見せて頂戴。あなたはわたしの特別で癒しなんだよ、それを伝えるためには言葉だけじゃ足りないというのなら、とびっきりのキスとハグを。その先は夜が降りてくるまで待って。
Ash.