未来に夢を抱かなくなったのは、いつからだっただろう。
それはとても素敵なことだったような気もするけれど、ああそうだ、抱いた夢が叶わないことを知るのが怖くてやめたのだ。
いつだって夢をみるためには、少しの覚悟と、たくさんの勇気を必要とする。もともと夢だ希望だと語る性格ではなかったけれど、歳を重ねる度に、それらはどんどんと遠退いていった。
明日の授業に使うプリントを印刷して、クラスごとにまとめて、明日の授業順に並べる。いまだに慣れないこの作業に時間はどんどんと費やされていくけれど、実習生のわたしに出来ることなど皆無に等しいので、せめて出来ることは全力でしなければいけないのだ。生徒のため、否、その建前のもとにある『単位』という本音のために。
我ながら現金なやつだなぁ、とは思うけれど、正直実習に来ている子達なんて皆そんなものだと思う。もしかしたら例外だっているんだろうけど、残念ながら、わたしにはそういうやる気みたいなものは全くない。努力、熱血、青春、ああ鳥肌がたつ。そういえばわたしは、高校時代から少し冷めていた部分があった気がする。
だから、忘れ物を取りに来たはずの教室の中から、高校生らしい少しはしゃいだ声で「おまえ好きなやつとかいんの?」だなんてセリフが聞こえてきたときには、思わず固まってしまった。
「え、さすがにまだいねーよ。入学して半年ぐらいだろ?」
「ええー!泉ってば純情ー!」
「はぁ?おまえが惚れやすすぎんだよクソレフト」
「そんなことないって、みんなそんなもんだよー?だってほら、花井なんかこの前告白されてたし!」
「ばっ水谷言うなよ!」
「ひゅーひゅー」
「茶化すなおまえら!」
あーやだやだ、いかにも青春って感じだ。誰が可愛くて、誰が告白されて、そんなこといちいち大げさに囃し立てても、結局三年後にはみんな忘れるのだ。いや、もしかしたら、来年には忘れているかもしれないのに。
ここは話が盛り上がってしまう前にさっさと忘れ物を取りに行ってしまおう。聞きたくないような生々しい話まで聞こえてきて、万が一にでもこの後の実習生活に響いたら嫌だもんね……。よし、お邪魔します。
「あ、そういえばさぁ!」
扉を開けようとした左手が、ぴたりと止まってしまった。それはひときわ大きな声が聞こえてきたことによる反射みたいなものだったのだけれど、この時意地でも開けておくべきだったと三秒後には後悔することになる。
「9組の副担のさ、ほら、キョーイクジッシュウセイ?あの人可愛くない?!」
(……げ。)
9組の副担?実習生?はい、わたしのことですね本当にありがとうございました。
本人たちはまさか本人がいるとも知らずに本人の話を…………あれ、ややこしいな。まぁつまり、だれだか知らない男子高校生達がわたしの話で盛り上がりはじめたということだ。やれ可愛いだの可愛くないだの、どうせ話すなら顔のことじゃなく授業内容のことにしてほしい。これだから青春まっさかりの男子高校生達は困るのだ。
完全に入るタイミングを見失ってしまったわたしは、伸ばしていた左手を戻して背を向けた。……かなり正直に言うならば、気にならない話題ではないのだけれど。話の方向によってはそれこそ実習生活に支障をきたしてしまうだろうし、なにより、自分の裏での評価を面と向かって聞く勇気などない。
もういいさ忘れ物は。ここまで来ればあと30分待つのも一時間待つのも変わりやしない。その間に下校時間になるだろうし、下校時間になっても帰っていないようなら、今度こそ先生面をして堂々と入っていけばいいだけの話だ。
そうだから、二歩、三歩と。しかし歩みを進めつつも、わざと遅いペースで歩いてすぐさま教室前を立ち去らなかったのは、次に聞こえてきた声が聞き覚えのある声だったからだ。
「みょうじ先生はさぁ!」と切り出した、底無しに明るく元気なこの声。教室で会うと、いつも真っ先にオハヨウ!と叫んでくれるあの声だ。
「可愛いとか、そーゆうんじゃねーの!あの人は!」
「あー、キレイとか美人とか、そっち系ってことぉ?」
「そうか?みょうじ先生ってどっちかといえば可愛い系だろ?」
「だーっちげーってば!水谷も泉もわかってねー!みょうじ先生は可愛いとかキレイとかそーゆう次元じゃねーの!つーかおまえらもう、みょうじ先生の話すんな!」
「はぁ?意味わかんねーぞ田島」
ほんとに、わたしだって意味がわからない。可愛くもなくて綺麗でもなくて、って、それならブサイクだよなーって盛り上がってくれればいいのに。そうしてくれれば、ただの生徒と教師として一線を張って付き合っていけるのに。なんだこの雰囲気は。なんなんだこの変な緊張感は。
おそるおそる振り向くと、扉の窓越しに彼と目があったような気がして驚いた。ああだめだよ、そんな目でこっちを見ないでよ。なんだかすごく、期待させられてしまうじゃないか。
「ま、まさか田島、オレらに嫉妬してんのか?ってことはおまえ、みょうじ先生のこと……!」
「だったら何だよ?言っとくけど花井、おまえには渡さねーぞ」
「はぁ?!べ、べつにオレはだなぁ!」
「いやっ待て待て!無謀にも程があんだろ!相手先生だぞ?センセー!」
「泉の言うとおりだよ田島ぁ。つーか無謀すぎて、もはや夢物語って感じ……」
「うっせーなぁ!別に夢ぐらい見たっていーだろ!」
だんだんと怪しげな方向に会話は向かっているのに、これ以上聞いてはいけないと理性が告げているのに、まるで逃げるなとでもいうように、彼の瞳はもう一度わたしを捕らえた。
彼の唇が、わたしに見せつけるようにゆっくりと動く。
だからさ、覚悟しててね、先生。
「っ、」
「……あ?田島、なんか言ったか?」
「んー?別にー?つーかそろそろ帰ろうぜ!腹減った!」
「はぁ、ほんとおまえってマイペースだよな」
がたりと椅子の動く音で我に返り、慌てて隣の教室へと身を隠した。壁越しに聞こえる足音と微かな話し声が、わたしの心臓をどんどんと叩く。
盗み聞きなんて、するんじゃなかった。
後悔したって遅いことはわかっている。どれだけ目をつぶっても、彼が見せたあの熱っぽい視線は頭から離れそうにないのだ。
「あ、わり、忘れ物したから先行ってて!」
離れかけた足音がひとつ、戻ってくる。それが誰のものかなんて、姿を見なくてもわかる。紅潮した頬は戻っているだろうか。額に滲んだ汗は引いただろうか。早鐘を打つ心臓の音は、外に漏れてしまっていないだろうか。
どれだけ考えても、確認をする暇などないのだ。この目を開ければきっとそこには彼がいて、息をつく暇もなく彼は再び夢を語るに違いないのだから。
「……みょうじ先生、」
「たじま、くん」
「あのさぁ。オレの夢の続き、聞いてくれる?」
夢を語ろうとする彼は今、眩しいほどに輝いている。わたしが無くしてしまったものを、彼は持っているのだ。
「先生をオレだけのものにすんのがオレの夢なんだけど、オレの夢、叶えてくんない?」
ああこれだから、高校生なんて。
Ash.