日本の国際課から国際警察へ異動して、もうすぐ2ヶ月になろうとしていた。
なまえが所属しているのは国際警察一の検挙率を誇る狼士龍が率いる捜査チーム。彼は27歳という若さでありながら人海戦術を駆使し、数多の犯罪者を検挙してきた剛毅果断な実力者だ。―――そんな彼の捜査チームは現在、アジアの西に位置する小国・西鳳民国に活動の拠点を置いていた。
日本にいた時とは一味違う国際警察の激務、文化、言語の違いには思っていたよりも早く馴染む事ができたなまえだったが、その中で未だ馴れない事が一つ。
―――それは先輩達との関係だ。
これは気のせい、なのかもしれないが、昔からチームに所属している人間から時折厳しい視線を向けられる事があった。捜査等は卒なくこなすが、何処となくピリピリした空気が張りつめている感覚にいつも襲われていた。何か、信用に値する人間かどうか見定められているような。それがどういう意味を持つのか、なまえは分からないでいた。
◇
某日午後9時過ぎ。
昨日に引き続き、午前中から今に至るまで事件関係者達の取り調べが警察署内で行われていたが、なまえがそれに参加する事はなかった。やはり警戒されているらしい。自分以外の人間が出払った刑事課の部屋で、淡々と行うデスクワークにとうとう耐えかねたなまえは少し眠気を覚まそうと部屋を抜け出した。
向かった先は、なまえが唯一ほっと息をつく事のできる屋上だった。ひんやりとした風が緩やかに吹いており、なまえは小さく肩を震わせた。
西鳳民国の夜はまだ肌寒い。扉のすぐ近くにある自販機であたたかいミルクココアを買うと、なまえは殺風景なこの場所を囲うように設置されたアルミ製の柵に向かって歩き出した。ここへ来る度に考えるのはいつも同じ事。―――何故、自分が狼率いる捜査チームに引き抜かれたのか。しかし、何度考えても納得できるような答えは出ない。狼とはたった一度の海外研修で挨拶を交わした、顔見知り程度の関係であったのに。また、日本での検挙率が特段高かったというわけでもなかったのに。
無意識に深く長い溜め息が吐き出される。柵の前に辿り着いたなまえは腕を置いて眼下の景色を眺める。そこにはただ暗闇が広がっているだけ。
向こうでも頑張れよ、と背中を押してくれた元上司をふいに思い出す。こちらへ来てまだ2ヶ月だと言うのに、大きな手で不器用に頭を撫でてくれた彼の温もりがとても懐かしく思われた。決してこの仕事を辞めたいわけではない。だが、日本から遠く離れた異国の地に心を許せる存在が全くいないのは、精神衛生上良くない事だと思う。
どろどろと湧き上がる不安を払いのけるように缶のプルタブを開け、ぐっとミルクココアを喉に流し込むと、ちょうどいい温かさと甘さが身に染みた。なまえは油絵具を塗りたくったような、のっぺりとした漆黒の空を見上げる。空気が澄みきり、尚且つ空を狭くするような高層ビル群が建てられていないこの国では、日本では見られないであろう燦々たる星が見てとれた。星々の名前は知らない。だが、夜空に散りばめられた無数のそれらが今のなまえにとっての安らぎだった。
「…随分と思いつめてるじゃねぇか」
背後から声をかけられ、反射的に背筋が伸びる。振り返るとそこには、別件で日本に出張しているはずの現在の上司である狼がいた。確か帰りは明日の朝だったはず―――。そう思いながらも、お疲れ様です、と頭を下げると、狼は両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、ゆっくりとした足取りでなまえに近づいた。
「どうだ、順調か」
「…ええ、色々と新たな情報が出てきているようです」
「そうか」
顔を突き合わせて話すのは、これで3回目だった。1回目は海外研修で初めて出会った時、2回目は捜査チームに配属された時、そして3回目は今現在。
狼は真っ直ぐ前を見つめ、なまえと同じく街を見下ろしていた。会話が続かず、2人の間に沈黙が流れる。どうもこの手の沈黙は苦手だ。何か話題がないかと思考を巡らせていると、狼が先にこの沈黙を破った。
「…やりにくいか」
心を見透かされたようで、どきり、とする。そんな事は―――と否定する言葉を口にする前に再び狼が口を開く。
「実はなまえがここへ来る前、オレ達のチームにはある女がいたんだ。信頼のおけるオレの秘書でよ、色んな面でサポートしてくれていた」
なまえは黙って狼の話を聞いた。相変わらず狼は遠くを見据えたまま。ポケットから手を出した狼は柵に肘をつき、眼前で両手を合わせた。―――まるで何かに祈るようなその姿に息を飲む。何処となく憂いを帯びた顔に、弱さというものを垣間見たような気がした。
「だが、ソイツは…密輸組織の一員だった」
なんとなく察した気がした。時折彼らから向けられる眼差しの意味を。
「アイツらにはオレからしっかり言いつけておく。なまえは信用のできる人間だとな」
「―――あの、どうして…わたしをチームに入れたのですか」.
口をついて出た言葉はずっと疑問に思っていた事だった。
それにかつて秘書だった《女》に裏切られていたのなら尚更―――。遠くを見つめていた狼の双眸が、久しぶりになまえを捉えた。
「目だ」
「…目、ですか?」
「ああ、初めてオマエを見た時、その力強い目に惹かれたんだ」
どうしても忘れられなかった、と言う狼になまえはむず痒さを覚えた。ありがとうございます、と呟けば、嬉しいやら恥ずかしいやらが混じったなんとも言えない不思議な感情に自然と顔が綻ぶ。人から何かを褒められたのはいつ以来だろうか。
「…笑った顔を見るのは初めてかもしれねぇな」
「え?そう、ですか?」
「いつも眉間に皺寄せて怖ぇ顔してる」
肩肘張りすぎだ、と狼はなまえの眉間を人差し指でとん、と軽く突いた。そして何を思ったのかその手をなまえの眼前で広げると、わしゃわしゃと頭を撫で回し始めた。なまえの柔らかい髪があちらこちらへ乱れ飛ぶ。
「ちょっと、狼さん…!」
「そうやって笑っとけ。オマエにしかめっ面は似合わねぇ。狼子曰く!"オンナは愛嬌"だぜ?」
高らかに笑う狼の双眸に、悲哀の色はもう見えない。いつも通りの眼光炯々とした逞しい表情。
「よし、そろそろ仕事に戻るとするか。なまえ、オマエはオレの取り調べにつけ。いいな?」
「っ…応!」
乱れた髪もそのままに、生温くなってしまったミルクココアを一気に煽る。大丈夫、まだやれる―――。仰ぎ見た空に向かって小さく微笑むと、既に歩き出していた狼の背中へと駆け寄った。
これは無数に瞬く星々だけが知っている或る夜の二人のお話。
Ash.