地下へと続く石の階段を足早に降りると、革靴の底が床を叩く音が反響して耳障りだった。もう夜も底という時間なのだ。ひょっとして彼女は眠っているかも知れない。迂闊だったと舌打ちすると、オドレンは歩調を緩めた。牢獄への通路を照らすのは、蝋燭の薄ぼんやりとした灯りだけだ。長身のオドレンの影が、殊更にひょろりとして冷たい石壁で蠢いていた。
ハルモニア王国にやってきたオドレンが、この地下通路を見つけたのは必然だった。あからさまに何かを隠していますといわんばかりの匂いに、盗賊たる彼が気づかないはずがない。何重にもかけられた鍵をあっという間に破って、そうしてたどり着いた最深部の牢獄。そこに、初めて出会った彼女は囚われていた。
――これは、これは。
君のような美しいひとが、こんな薄汚く陰気な場所に囚われているとは。
――悪い?可愛い女の子だって悪に染まることがあるんだよ。
そう答えた彼女の眼にはある種の輝きが宿っていて、オドレンはそれだけで彼女を好きになった。強欲な人間だけが持ちうる悪意の光。盗賊は自らの目をもって、獲物の本質を見極めるのだ。ぼんくらには盗賊を名乗ることは出来ないし、当然オドレンはぼんくらではなかった。一瞬で自分と同じ匂いを彼女から感じ取り、絶対の自信をもって彼女に告げる。
――ああ、悪いね。一体どんな悪事をしでかしてここにいるのか、お教え願いたい。
――もちろん、この国の財宝を狙ったの。あなたもそうでしょう?
そして彼女もまた、ぼんくらではなかった。彼女の目が節穴でないことの証明に、はっきりとオドレンの正体を言い当ててみせたのだ。彼女の頭のてっぺんからつま先までを、オドレンはじろじろと無遠慮に眺めまわした。自称するだけはある可愛らしい顔立ちも、白く華奢な腕も脚も、かつては鮮やかだったであろう擦り切れた赤のドレスも、地下牢獄の薄暗い中ではくすんで見えた。ああ、嘆かわしい!あふれんばかりの極上の悪意で満たされたその身体は、地上にこそあるべきなのだ。悪という存在はつまらない善人どもの、憎悪と軽蔑と隠しきれない羨望の視線に晒されてこそ、最も美しく輝くというのに!
オドレンは「恐れ入った」というように両手を広げ、その場に跪いて頭を下げてみせた。王国の作法に完璧に則った、美しい所作である。上目づかいに彼女と視線を合わせると、彼女もしっかりとオドレンの目を捕えて離さなかった。「オドレンだ。世界を股にかける大盗賊にして、稀代の悪役」「……なまえよ。駆け出しの盗賊だけど、今はご覧のとおり」……。
あの日名乗りあって以来、オドレンは彼女の虜だった。自尊心の塊みたいな彼が、ここまで他人に執着するというのも珍しい。当初の目的通り、王国を乗っ取る算段を立てるうちに、彼女のいる牢獄は王国に伝わる何とかという魔法で封印されていて、地上への道は月が雲に完全に隠れている夜にだけ、現れるのだと知った。辿りつくまでの過程が困難なほど、獲物は魅力的に見える。盗賊という人種に共通の本能に、オドレンも当然にとりつかれた。封印を解こうとして失敗するたびに、彼女への想いはますます燃え上がるばかりだった……。
そんな回想を巡らせながら、今夜もまた、オドレンは鍵穴のない鉄格子の前に立つ。すでに足音で分かっていたのだろう、冷たい鉄格子に添うように彼女は立っていた。
「起こしたか」
「ううん。最近は寝つきが良くないから」
「そういう生活は体に障るぜ」
言ってから、こんな牢獄に閉じ込められている時点で健康などとは程遠いのだと気づいて、オドレンは苦笑した。彼女の白い肌にははっきりとくまが見て取れ、以前よりもますますやつれて見えた。彼女が眠れない理由は何となく予想することができる。「けど、まあ、なまえ。君の気持ちは分かる」憔悴しきった彼女が一層愛しく思えて、オドレンは優しく話しかけた。
「俺さまがいつ来るかなんて、分かったもんじゃあないからな。なにせ俺さまは悪人だ。明日の朝にでも王国を乗っ取って、君のことなんかすっかり忘れちまうかもしれない」
「……ごめん」
「ああ、謝ることはないんだ。俺さまたちは互いに惹かれあっているだろ?でも、互いに救いようのない悪人だということも知っている……信用するなんて命とり、もってのほかだ」
俺さまだって君をここから出したら最後、王国の財宝を全部横取りされてはいさようなら、なんてこともあり得るからな。
半分本気で、笑いながら言えば、彼女も少しだけ笑った。
「だけど、やっぱり寂しいね……本当は私だって、信じてみたいけど」
たぶん、心にもないことをなまえは言った。二人が互いに信じ合える関係であったなら、彼女はここまでぼろぼろにはならなかっただろう。信じる力、なんて言葉は大嫌いだが、彼女の方もそんな力はまったく持ち合わせていないらしい。
オドレンは満足した。そしてまた、たまらなく彼女が欲しくなる。
「なまえ……」
名前を呼んで、手を伸ばす。彼女の方も同じようにしたから、掌同士が鉄格子越しに触れ合う形になる。本当は、今すぐこの腕に抱きしめて、彼女を手に入れたい。冷たい鉄格子が邪魔だ。もどかしい思いで、せめてと身体を互いに寄せあえば、オドレンの高い鼻が彼女の額に触れた。オドレンは苦労して彼女の耳元へ唇を寄せた。安心しろ、と。
「王国を乗っ取ったら……きっと君を盗み出してみせるぜ」
甘い囁きは今日が初めてではなかった。オドレンが彼女を訪ねるたびに、そう約束しては結局封印の解き方を見つけられずに戻ってくるのだ。だが、そんな空虚な約束が、二人の心を甘く癒してくれる。オドレンとなまえは永遠に同じ夢を見ながら、その実、ひとりぼっちで闇夜を彷徨っているのだ。お天道様に顔向けできない悪人にはお似合いの末路だろう。彼女の手をとって、目の高さまで掲げさせた。それでもきっと、諦めてしまうこともできない。諦められない理由なんて、口に出すまでもないぐらい分かりきっているから、オドレンとなまえは、今夜も鉄格子越しに小指を絡めるのだ。
Ash.