どこか遠い世界の話だと思っていた。分厚く濃い霧に覆われた今までの常識がほとんど通用しない場所、死と隣り合わせが日常茶飯事で世界の覇権をお祭りのようにド派手に奪い合う場所。元紐育、現ヘルサレムズ・ロット。聞いているだけで身の危険を感じるそんな場所で日常生活を満喫していることすら驚きなのに、世界中から賓客をそんなところに集めて婚約パーティーなんて開くなよ!とちょっとどころかかなり変わった親友に悪態を吐きたい気分でそこに足を踏み込んだ。
そして今、その賑やかできらびやかで、ぐちゃぐちゃにあらゆるものがシャッフルされた街を目の前にした瞬間にすべてが吹き飛んでいく。見知らぬ生物、見知らぬ空気、けれど変わらぬ心地のよい喧騒。なにやら途中で想像しがたいトラブルがいろいろと連発したらしい、結局到着した時間が遅かったこともあり、時刻はすでに十二時近い。それでもギラギラと目に痛いネオン煌めく混沌という代名詞を冠した夜の街が大海原のように広がっている。
なんて、魅力的で刺激的な世界なんだろう。人も疎らな大通りで思わず口にしてしまったくらいには、そのすべては一瞬でわたしの心を奪っていった。浮わついた気分のどこかには、あの人がこの街にいるという事実も含まれていたに違いない。
分厚い霧に覆われた空には月も星も輝かないのに、わたしが知っている世界となんら変わらぬ夜だけは怖いくらい圧倒的に気高く広がっていた。
ずっとずっと昔のこと、わたしがまだ小学校すら卒業していないくらい小さかったころのこと。嫌々アイボリーのドレスを着せられむりやり連れていかれたその大きなお屋敷で、わたしは名前ばかりの許嫁だというその人の顔を初めて知った。きらびやかな恰好をした大人たちがたくさん集まるパーティー会場は子供にとってはあんまりにも大きすぎて、はぐれた父親や母親を探す術は見当たらない。やっとの思いで人ごみから抜け出してふらふら行き着いた大きな窓からは蕩け出しそうなほど大きな月が藍色を従えているのが見える。見上げても輝くばかりで助けてはくれないまあるい光になおのこと煽られてしまった心細さに、ついには泣きそうになっていたわたしに「大丈夫ですか?」と声をかけてくれたのがクラウス・V・ラインヘルツ、その人だった。きらきらと光るペリドットの瞳が、本物の宝石のようだと思ったことを覚えている。
「私はクラウスと言います。父上や母上とはぐれてしまったのですか?」
「お父さまも、お母さまも、見つからなくなってしまったの」
「では一緒に探しましょう。あなたのお名前は?」
身長に特段驚くほどの違いがあるわけではないはずなのに、差し出された手はわたしよりも一回り以上も大きくあたたかくて、不安な想いを溶かしていく。湿っぽく拙い声で自分の名前を名乗ったわたしに一瞬だけ驚いた表情を見せたけれど、彼はそのあとも手を離すことはなく、完璧なエスコートとともにちゃんと両親を見つけてくれた。幼心にこの人はしっかりしたすごい人だと感動したものである。「ありがとう」と精一杯で笑ったわたしに「どういたしまして」と返してくれた笑顔が、わたしを恋へと落としたのはまず間違いない。けれど無事に再会できた両親が晩御飯の献立を教えてくれるかのようなほんわかした口調で投下した爆弾みたいな衝撃的な言葉のせいで、わたしのそこら辺の記憶はひどく曖昧なものになってしまっている。
「あら、もう仲良くなったのね。彼があなたの許嫁よ、ちゃんとご挨拶はできた?」
なんだ、それ。ずっといやだいやだと思っていた最初から結婚が決められた存在が、よりによって彼だなんて。淡く色づき始めた好きだと思う気持ちと、初めから敷かれたレールの上を進むのがいやだと反発する気持ちが一気に心の中でごちゃ混ぜになる。照れたように頬を掻いた彼から視線を逸らすように赤い絨毯の上に行儀よく並んだ靴のつま先を睨みつけた。
「わたし、許嫁と結婚だなんて、いやです」
子供はなんて純粋で、残酷で、簡単に人を傷つけられるんだろう。今でもその稚拙な言葉を繰り返し悔やんでいる。確かに周りの女の子たちのように自由に誰かを好きになってその誰かに告白するとかしないとか、そういうドキドキを共有して、実った想いによろこび頬を染めるような恋がしたいとずっと羨んでいた。どうして自分にはその自由が許されていないのだろうとずっと理不尽さを感じていた。初めて誰かを好きになったと思ったら、それがわたしを悩ませている名称だけの存在だったなんて。
そのときのクラウスの表情を見ていないことだけがわたしにとっては幸運なことだったのかもしれない。
「出会ったときにはほとんど目線の変わらなかったあなたが、いつの間にかこんなにも大きくなっちゃった」
「あどけなく可愛かった君が、いつの間にかこんなに綺麗になってしまったのだからお相子だろう」
無駄に広いバルコニーからは霧を遮断し投影された偽物の星が黒い幕のような空に点々と瞬いている。あの日見た、世界を支配してしまいそうな本物の月はなく、遥か霧の向こうへと消えてしまった。
ヘルサレムズ・ロットにおいて比較的安全な街、昔のままのゴッサムを色濃く残した四十二番街に存在する格式あるホテルで行われている親友の婚約パーティーに参加していたわたしはあっという間に暇を持て余し、人々の思惑が交錯するメーン会場からそそくさと逃げ出していた。そんなわたしの名前を呼ぶ声に振り返ればあまりにも懐かしく感じてしまうほど、ずっと会いたいと渇望した彼がそこにはいた。前々から彼も招待されていることは知っていたはずなのに心臓が万全にしたはずの心の準備を台無しにして一気に速度を跳ね上げる。
本当に、口まで達者になってしまって、あのかわいらしさは完全に姿を消してしまったのね!と唇を尖らせればそんなものただのポーズだと分かっている彼は大した慰めを寄越すこともなく、シャンパングラスをこちらへと向けてくる。当たり前に行われる優雅な動作に倣って同じようにシャンパングラスを同じ高さまで引き上げた。まったくの二人きりでこうやって直接会って会話をするのは、クラウスが婚約者を解消するとわたしに告げた大崩壊直前以来、四年前振りのことだった。
「久し振りね、無事でなにより」
「ああ、君も元気そうでよかった」
あんなことを言ってしまった後でもわたしとクラウスは何度もパーティーで顔をあわせたし、たまにプライベートでもデートという名目で会うことだってあった。会うたびに強く惹かれ、最初の淡い恋心が嘘じゃないと確信するのは簡単だった。そんな素振りはまったく見せなかったからこそ、関係を解消しようと言ったクラウスの言葉にわたしは裏切られた気さえした。あんまりにもショックでご飯が食べられなくなったのはそれが最初で最後だ。
けれど結局は自業自得だということも理解はしていた。本当は疎まれていたのだと、あのときの言葉が原因なんだと、愚かしいわがままを後先考えず口にするような女に嫌気がさしたのだと思った。茫然と引き止めることもできずに別れてしまったその直後、クラウスは混沌の街になったらしいヘルサレムズ・ロットに拠点を構えたのだと人伝に聞いた。
世界の秩序を保つだかなんだかよくわからないヒーローみたいなことをしていると、そんな内容の手紙が送られてきたのはそれから半年以上も経ったころのことだ。唐突な手紙にひどく驚いたものの(内容はともかくとしても)関係を完全に断ち切られたわけではないとわかった瞬間、うれしい気持ちを抑えきれずに返した手紙は然して期間も空けずに必ず返ってきたし、たまに電話もしてくれるようになった。うまくクラウスが隠しているだけなのかもしれないけれど、嫌われている様子は見受けられなかった。その事実だけで幾度となく泣かされたものだ。何度、好きだと伝えてしまおうとしたか両手の指だけでは数えられない。その度に拒絶されるのかもしれないということが頭を過り、気持ちをひた隠しにしてきた。
隣に並んだクラウスが咳払いをひとつ響かせる。ぼんやりと過去を辿っていた思考を引き戻し、彼に向き合えば、珍しく幾分緊張したような息をひとつ漏らした。
「…今日はどうしても伝えなければいけないことがある」
「そう、……結婚でもすることになった?」
クラウスのふと表情に驚きが浮かんで、眼鏡越しの目が見開かれて相変わらず濁ることのないペリドットがきらきらと輝いた。雰囲気に飲み込まれまいと軽い口ぶりで茶化したわたしの言葉は当たらずも遠からずというところだったのだろうか、自分で発したそれに自分の心が抉られていく。もし本当にそうならば、もしクラウスが他の誰かと結婚することになったのならば、わたしは一生「許嫁と結婚するなんて嫌だ」とあんなことを言ってしまった自分を責め続けるのだろう。決められた道でも良かったと、クラウスと一緒にいられるのならどんな運命だってよかったのだと、誰にも言えない後悔を一生抱いて生きていくしかできない。どれほど焦がれた自由を手にしても、どれほど誰かと情熱的な恋をしても、いつも淡い緑色の宝石のピンキーリングを外せない理由は、いつだってわたしの心の中に明確な形として居座っていた。知らない誰かと笑いあうクラウスの姿なんて、見たくない。誰かを思うクラウスの言葉なんて、聞きたくない。
堪えきれず涙が滲んできたことを悟られまいと視線を逸らす。俯いた先で景色が水面のようにふるりと揺れた。
しばらくそのまま無言が横たわった二人の間を裂くように風が滑ってドレスの裾を揺らした。前触れもなくクラウスのがわたしのシャンパングラスを取り上げて、お飾りのように置かれた小さなテーブルの上に避難させる。手持無沙汰になってしまったわたしの左手を、クラウスの右手が信じられないほどやさしく掴んだ。一回りどころではないくらい大きくなってしまった手にびくりと肩が震えて目の淵を象った水滴がこぼれそうになる。その体温は、あのときと同じようにあたたかく、不安を簡単に溶かしていく。湿っぽく暑い夜は少なくなり、最近めっきり寒さばかりを感じるようになった夜風がクラウスの体温に暴れそうになる頬の熱を気持ちばかり攫っていく。照れくさそうにわたしの手をとるその表情が、記憶の中の少年とリンクした。
「君のこの先の人生を、私にくれないだろうか」
「…え?」
「許嫁という名目がなくなったとしても私は君を愛している。君が他に懇意にしている特別な男性がいるというのなら退かねばならぬだろうが、私は、」
「クラウス、待って、ストップ」
矢継ぎ早に紡がれる予想だにしていなかった言葉たちはわたしの思考を掻き回すには十分すぎた。そんなことも意に介さず続けようとしたクラウスの前に空いている手のひらを差し出し、待ったをかければ薄く開かれていた唇が真一文字に結ばれる。ひんやりとした外気でも奪えない頬の熱は加速していくばかりだ。震えそうになる声を絞り出す。
「だって許嫁を解消しようって言ったの、クラウスじゃない」
「君は自由に恋をし、自ら結婚相手を見つけたいと言っただろう。私が相手では役不足だからだと思った」
「でも、いま、」
「…恥ずかしい話だが…同僚に君のことを打ち明けたときに君が自由な恋愛を望んでいるのは許嫁という古びた慣習を厭うているだけではないのかと、それならば私の気持ちを告げることは別に構わないのではないかと、背中を押された」
あなたをそんな風に穏やかでうれしそうな表情にさせる理由はなに。薄いガラス越しに慈しみのあふれそうな視線を向けられ、思考が止まる、息すらうまくできない。徐々に体から力が抜けていく。忙しなく動く口を止めてもらうためにクラウスに向けていた手のひらは、いつのまにかその位置を維持できずにずるずると下がってしまった。段々と、クラウスの言葉をひとつずつが染み込んでくるたびに、体の真ん中に芽吹いた歓喜は時間を追って爆発的に質量を増やしていく。
「自分の気持ちを押し付けるような言葉ばかりで申し訳ない。しかしこの気持ちだけは君に知っていて欲しい」
「クラウス」
「私は、君と共に生きていきたいと思っている」
どんなに決めつけられたレールの上をただなぞるだけの人生だって、あなたがいればそれだけでよかったと、何度涙を拭ったか知らないくせに。わたしが今、どんな気持ちであなたの体温を感じているか知らないくせに。自信なさげな、不安そうな声でわたしの名前を呼ばないで。今すぐにでも抱きついて子供のように大声で泣き出してしまいそうだということも、知らないくせに。
ついにはコントロールできなくなった涙腺からボタボタと涙がこぼれていく。クラウスの真っ直ぐすぎる熱から逃げるように俯いたわたしの涙がいくつもぽたりぽたりとドレスへ着地してサテン生地の深紅に染みを増やした。それを見て心底驚いたのか焦ったのか体を屈めてわたしの頬に手を伸ばす巨体の愛らしい慌てっぷりといったら!離れていきそうな右手をぎゅ、と握って瞬きを何度か繰り返してから見上げた先では、相変わらずの熱を孕んだクラウスの目がわたしを映してわずかに細められる。この、どうしようもなくわがままで子供のようなわたしは、あなたのきれいな瞳にどんな風に映っているのだろう。
「クラウス、わたし、ずっと昔からクラウスのことが好きよ」
「!」
「心細くて仕方なかった迷子から救ってもらったあのときから、ずっと。あなたが好きなのに許嫁という存在は嫌いで、だからあんなことを口にした自分の浅はかさを何度も呪った」
「あのとき、から」
「わたしからもお願い、もしもクラウスがこんなどうしようもない女を拾ってくれるというのなら、どうか、あなたの隣にいる権利を頂戴」
クラウスの固い指先がためらいがちに触れる自分の頬をそっと体温に擦り寄せて、未だこぼれ続ける涙もそのままに不恰好な愛の言葉を夜に溶かしていく。わたしはおそらく最初から、ずっとずっと変わらずに、この吸い込まれそうな宝石とやさしい体温に心奪われている。取り込んだ冷ややかな酸素の代わりに吐き出す二酸化炭素は、どうしたって熱いままだった。
Ash.