晋助様、また子からその名前を聞かない日はなかった。憧れの先輩らしいが、殆ど学校に来ないためなかなか会えないという。彼女の話によるとテスト期間中やたまにひょっこり姿を出すらしい。高杉晋助さんはこの学校でもちょっとした有名人である。銀八先生とタイマンを張った、とかあの不良高校と名高い夜兎高校の番長から目をつけられてる、とか。とりあえず基本的には怖い噂ばかりだ。ただ、あたしは毎日彼女から高杉さんの話を聞くためか他にも色々な情報を持っていた。算盤が得意で実は成績が良いとか、好きな煙草の銘柄とか、ほぼ幽霊部員なのに剣道部とか、などなど他にも色々な情報がある。そのためか怖さは軽減した。
しかし、私はまだ実物の高杉さんをしっかりと見たことがなかった。いつだったか、遠目からまた子が見つけたときにちらりと姿が見えたが、顔の判別がつかない距離である。というよりよくこの距離で見つけたな、という感じの距離感であった。また子は高杉さんのことを崇拝している。恋は盲目と言った可愛いものではない。本人もその自覚はあるらしく、恋では無いと断言していた。それくらい人を惹き付ける何かが彼にはあるらしい。


「すいませんっス!今日は先に帰ってて下さいっス!」

「あれ、補習って今日だったっけ?」

「いや、補習の代わりに準備室の整理整頓で手を打つことにしたんスけど、さっき銀八に会ったら今日やるっていわれたんスよ」

「私帰ってもやることないし宿題でもして待ってるよ。そんなにかからないでしょ?」




さて、そうは言ったものの放課後になったばかりでがやがやとする教室では、すぐには宿題をする気にはなれなかった。私はやる気を出すためと、暑さ対策のために鞄の中からヘアゴムを取り出して髪をまとめた。梅雨が明けてじめじめとした不快感からは解放されたが、今度は夏、暑さの本番はこれからだ。梅雨よりはいいが、クーラーのない教室だと少し辛い。図書室は冷暖房が完備されているが、ここからは少し遠い。先程まで首周りにあった髪の毛がなくなったことで少しだけ暑さは緩和されたし、教室で我慢しよう。きっとまた子もすぐ終わるだろう。少しずつ静かになっていく教室であたしはシャーペンを手に取りノートを広げた。この暑さのなかでの数式とのにらめっこは厳しいが家に持ち帰るのも面倒だ。嫌なことは終わらせてしまおう。


「…あっついな」


誰もいなくなった教室に自分の声だけが響く。暑さに集中力が奪われて、数式を解く手はうちわを扇ぐ動きへと変わったいた。今日はいつもより暑い。蝉の声はまだ聞こえないけど夏は近い。
鞄の中からハンカチを探して額を押さえた。汗が垂れる程では無いが、ハンカチが顔に浮き出た汗を取る感覚はあった。うちわで風を自分へ送りながら窓際へと歩く。この暑いなか外で部活動とは大変だ。ぼんやりと野球部やサッカー部の練習を眺めていると、教室のドアが開く音がした。また子、お疲れ、そう言って振り向いたあたしの目には彼女の姿は映らなかった。


「来島いねぇのか」

「…また子なら、銀八先生の手伝いで準備室です」


答えた後にそれは一人言か、それとも問い掛けられた言葉か、どちらだったのだろうと思ったが、そうか、と返ってきたので少しほっとした。
しっかりと顔を見たことはなかったが、多分彼がまた子が崇拝してならない先輩、高杉晋助さんだ。左目に眼帯をしていて、覆うように前髪がかかっている、その容姿の情報はまた子からだけでなく校内中の噂で知っていた。また子からこれまで聞かされていた情報が頭の中を巡る。今はテスト期間中でないため、気まぐれでひょっこり学校に来たというところだろうか。きょろり、と教室を見回した高杉さんの目線が私とぶつかる。ようやく実物を見ることができて、ゲームでいうならばレアキャラと遭遇した気持ちだ。


「お前、みょうじか?」


いきなり名前を呼ばれて、あたしの手からうちわが落ちた。うちわはすーっと高杉さんの足元に滑り、高杉さんはそれを拾うとぱたぱたと扇ぎ出した。お前の話を来島がよくする、そう言った。そういうことか、初めましてで名前を呼ばれるのは驚くものだ。ましてやそれが校内の有名人ともなれば、その驚きは増す。


「そうです。高杉さんの話もまた子からよく聞いてます」

「あいつ、何話してんだ?」

「高杉さんについて色々ですね、算盤とか剣道部とか」

「個人情報だだ漏れじゃねぇか」

「あたしについては何を話してるんですか?」

「いつも話聞いてくれるって言ってんな。あと、どっかに一緒に行ったとか」

「じゃあお互い様ですね」

「そうだな」


あ、笑った。片目が少しだけ細められ、口角が上がった。高杉さんは近くの机に腰を掛けて、お前も座れよ、と言った。あたしは自分の席へと座り、目の前の光景を不思議だなぁ、と思った。二つ前の席、いや、机に高杉さんがいる。そもそも学年が違うからこの教室には居るはずもない人だし、学校自体にいることが少ない人だから、教室と高杉さんという組み合わせが珍しいのかもしれない。
それから高杉さんと色々と話をした。お互いに初めましての状態なのだが、また子を介してお互いの情報があるため話が意外に弾んだ。銀八先生や夜兎高校の番長の話など噂話を聞いてみると、そんなに噂になってんのか、と本人は自分がいかに有名なのかをよく理解していないようだった。高杉さんは意外と天然だ、という情報をあたしは自分のなかに付け加えておいた。
銀八先生とのタイマンは未遂で終わったらしい。高杉さんが言うには銀八先生はあぁ見えて剣道と喧嘩は強いらしい。昔はやんちゃしていたのだろうか。夜兎の番長には何故か知らないが初対面から付きまとわれ、特に害はないからほっといているらしい。しかし、その番長のせいで厄介事に巻き込まれることも増えたらしく、そのため停学になったこともあるそうだ。また子が停学になったことはなかったため、そういう時はまた子を居合わせないようにしてるのかな、と思った。彼女の性格上、高杉さんが危険な目に遭うのは黙ってはいられないはずだから。高杉さんは言葉を止めて廊下をちらりと見て、来たな、と呟いた。その言葉と一緒に勢いのいい足音があたしの耳にも入り、その勢いのまま教室にまた子が駆け込んできた。


「待たせたっス!って、晋助様!?今日学校来てたんスか?」


また子が目を輝かせてこちらに歩いてくる。彼女があたしに高杉さんの話をする時と同じ表情だ。あたしに、待たせて悪かったっス、と軽く頭を下げて、今度は高杉さんの方へと向かった。二人が話している間に、あたしはすっかり忘れられたやりかけの宿題を閉じた。あと少しだし家に帰ってからやる気だして頑張ろう、自分に言い聞かせて数学の教材を鞄へと入れる。


「お待たせしたっス!帰ろう、なまえ」

「高杉さん大丈夫なの?」

「大丈夫っス!用事は済んだっス」

「じゃあな、来島、なまえ」

「はいっス!晋助様、また学校来て下さいね!」

「…、さようなら」


ぱたぱたとあたしのうちわで扇ぎながら高杉さんは教室を出て行った。喜んで手を振るまた子の横であたしはすぐに声が出せなかった。
さっきまでずっと苗字で呼んでいたのに、いきなり名前で呼んでくるなんて反則だ。色んな人が高杉さんの周りに集まるのがわかる気がする。彼はきっと、人タラシだ。男女問わず、彼は人を惹き付ける何かがあるのは間違いない。無意識なのか意図的なのかはわからないが、まんまとあたしもやられてしまった。
高杉さんに持っていかれてしまったうちわの代わりに、手に持っていたハンカチで暑さを払うように扇いだ。ハンカチの四辺を飾ったフリルが精一杯の風を作るために揺れていた。

Ash.