学校には女神がいる。
たとえば保健室。新任の美人が白衣着て座っているわけだ。森の奥の泉かと思った。
そして忘れてはならないのが案外に体育館。こんなところに女神が?とお思いかもしれないがそれはまったくの早計である。放課後オレンジに染まったそこには清水潔子さんという美のイデアが降臨するのだ。泉かと思った。

こんなことを言うとある先輩などは「女神いすぎじゃね?」とのたまうが、女神がたくさんいる分には別にかまわないのではないかと思う。個人的には校内を泉でもっと華やがせたい。

ただし、田中には一か所だけ。どうにも泉と結びつけることができない場所があった。そこは言ってしまえば活字の地獄。利用回数は少ないが受付だけは確認する田中の努力も空しく鎮座しているのはおばちゃん司書という枯れた地。図書室である。

ボロっちいのに威圧感のある気がする引き戸を開ける。吸音性の絨毯が、体育館で慣れた田中には少し気持ちが悪い、なんだかお高く留まっているみたいで。
入ったところで足元の感触を、ぱふ、と確かめてみた。やはり変だ。

「今日雨でも降ってるの?」

受付カウンターには案の定、司書のおばちゃん。

「いや、風は強いっすけど、晴れてますよ」

あらそう、とあまり関心のない様子。田中はお勉強はできないが勘は悪くない方だ。おばちゃんは絨毯で泥を拭いたんじゃないかと勘繰ったのだろう。土足なんだから今更そんなこと気にしたって、年季の入った絨毯に変わりがあるものか、と少しムカっとする。

まあいいのだ。こんな何もかも古臭い図書室は諦めようではないか。
田中は受付を通り過ぎ、秩序だって並べられた机群にたどり着く。机が並んでいるのは教室と変わらないのに、眩暈がしそうになるのは一体なぜなのだろう。

「みょうじ」

最小限の声で本を読んでいる女子生徒に声を掛ける。
怪訝に目を見開いている少女は、しばらく田中を眺めまわすが記憶の中に同一人物を見つけ出せずにいるようだ。一向に合点のいった表情にならない。

「オレ、田中っていうんだけど。覚えてねえか?」

やっぱり眉根を寄せたまま、少女は何も言わない。
田中からすればここまで絞った声を出す方が、大声よりもよほど疲れるので、一層図書室という環境に嫌気が射し体育館が懐かしい。

「そっか。まあいいや、これ、この前貸してくれてありがとな。」

リュックから、綺麗に畳んだタオルを取り出して少女に突き出す。
それにも不審そうな顔をするが、タオルをそっと手に取って、やっとはっとした表情になった。それからもう一度田中の顔をじっと見つめた。

典型的な文化系の女の子という感じ。ボブカットで色が白くて少しおどおどとしていて。
目立つ方の造形ではないしこの前会ったときは体操服だったから、制服姿の今、ちゃんと見つけられたのは我ながらすごいと思う。

「わざわざ、ありがとうございます」

ちいさな、あまりそうは思っていなさそうな声音でお礼を言われた。

「おう」

あまり釈然とはしないままで、田中は任務を終えることとなった。

なんというか、潔子さんや保健の先生とは全然違うな、などと考えたって仕方がないことばかりもやもやと浮かぶ。女神たちが女神たる所以を挙げればキリがないが、やっぱりはっとするような美しさだろうか。たとえ場所が体育館という俗極まりない場所だとしても不可抗力で魅入られてしまうのだ。
そうこう考えているうちに、じわじわと腹が立ってくる。泉にたたずむ女神とそうでない女子とを比べる由もないのに、タオルを借りていたのは自分で、それなりに感謝もしていたのに、だんだんとみょうじにひどいことをされたような気がして。こっちがわざわざ図書室まで出向いて、返しにきてやったのに、なんで何にも言わないんだよ。体育館がちらつく。空調設備なんてない蒸し暑さ。困ったように眉根を下げる笑顔。

考えながら、出口まで来てしまっていた。いわゆる図書室というなんの面白みもなさそうなここの唯一の特徴はこの出口。入口とは違って外階段で校門の近くに降りられるようになっているのだ。(と言っても、どちらから入っても出ても構わないのだが。)
ガタガタと風がボロの扉を揺すっている。開くと中に吹き込むことを容易に想像ができたので少しタイミングに悩むところだが、そこで本を読んでいるみょうじが少しでも嫌な思いをすればいいと思いついた。整えられたボブが、丁寧に捲っているページが、膝ほどのスカートが風に揺れるのまで浮かんだのに、振り返ってみるとみょうじがいない。

落胆よりもやはり苛立ちが勝った。あいつ、オレが来たからって帰ったのかよ、と憤慨したが、先ほどまでみょうじが座っていた席には、まだ筆箱や自転車のカギが置いてあった。財布なんかが入ってる鞄だけ持って、本を探しに行ったというところだろう。
ずんずんと本のビル群を突き進み、いくつめかの交差点で発見する。

「おいみょうじ」

びくりと肩がはねる。田中だと気づくと、再び怪訝な表情となる。

「なんですか」

なに、と言われると、特に体裁の整った用事も理由もないことに気づいて顔に血が集まる。

「お前イライラする」

びっくりするほど短絡的に暴言。みょうじは、怒ったような泣き出しそうな、どちらともとれる顔をしている。まだいっぱいに笑ったところも見た事が無いのに、あんまりだと、田中はやっぱり被害者の気持ちだった。

「体育祭のとき、結構オレら仲良くなったじゃんか」

同じ学年なのにその日初めて認識した大人しそうなその子と、柄の悪そうな田中が話すきっかけが何だったのか、もはや田中本人も覚えていない。そんなものは体育祭の熱気に紛れてしまったけれど、自分の名前を名乗る彼女の唇の動きや長い睫毛の震えていたこと、その下で落ち着かない瞳を、今でもはっきりと覚えている。他の誰も知らない魔法の呪文を知ったような高揚が、あれから離れない。

「タオル返そうと思ったら、いなくなってるし」

少し目を離した隙にみょうじは姿を消していて、運動の苦手そうに上下長袖のジャージを着て、体育館で浮いていたに違いない彼女を結局見つけることはできなかった。
先ほどまで座っていたために机の下だった彼女の膝が、わずかにスカートから見え隠れしている。やはり体育館よりも図書室にいた方が似合う、ジャージよりも制服の方が。

「ごめんね」

小さいのに、すっと空気を澄ますような声。

「私は、そんなに仲良くなった気がしていなかったから」

ガタガタと風が扉を叩いている。とうとうどういうわけで苛立っていたのか理解してしまった。じゃあ、と乾いた声を喉の奥からひねり出す。

「これから仲良くなれよ」

「田中君、あのね、私たちって真逆のタイプじゃない」

「真逆で何が悪いんだよ」

「田中君みたいな強引な人と仲良くなれない」

か弱そうな見た目に反し頑なな少女。いっそう必死の田中も、それに対するみょうじも徐々に声を荒げる。

「図書室ではお静かに」

司書に一喝される。お前がうるせえよオバハン、などと呟く田中の脇を、みょうじがすり抜ける。

「あっ、待てよ!」

「もう私に会おうとしないで、私も田中君がいる場所には行かないから」

目立たないように目立たないように日陰を通るような、そんな子だということは初めて話したときから感じていた。ここまで自分を避けようとするのがそのためなのか、本当に田中を好まないためなのかまではわからないが。

みょうじを追って本棚の列を抜けると、出口から風が吹き込む。同じく古ぼけたカーテンが、ばさばさと舞う。閉まる扉の向こうに、少し長めのスカートがひらりと見えた。

追うか追わないか、やっと躊躇する。なぜだか引く気の起こらなかったさっきまでとちがって、今はあまりに迫りすぎたかとか、自分は嫌われているのだろうかという不安が湧いてくる。落とした視線が、みょうじの座っていた席に着地した。

「あれ・・・これ」

筆箱などはひっつかんで帰ったようだが、ただ一つ。自転車のカギだけが机に取り残されている。よくあるタイプのカギを、田中は丁寧に手に取った。

今頃は必死に探しているだろうか。オレのいるところには行かないと言ったからには、取りに戻れなくて困ってるのだろうか。

これを届けてやったらちょっとは仲良くする気になったりして。いやいや、まさかそんな。
RPGの世界ならば、「ありがとう勇者さま」と言ってお礼のキスもしてくれるだろうが、きっととてつもなく嫌な顔をするに違いない。このカギは、みょうじと一緒に帰ることができる魔法のアイテムなのだ。「やっぱり強引」というみょうじが目に浮かぶ。

強情なあいつのことだから、自転車のカギを渡した途端に逃げてしまうかもしれない。オレが自転車を押して帰るべきだろう。なんだかその状況は、ただの友達ではないようで、顔が緩む。だけど気を付けなければいけない。どうやら色々な女神がいるようで、目を離すと風のように消えてしまうものまでいるようだから。


Ash.