「幸村くん」
「あ、みょうじさん。来てくれたんだ」
「うん、ほら、ノートをね。…いま大丈夫?」
「どうぞ。今日は調子が良くてね」

 言葉と視線で促してやっと、彼女はそろりと病室に足を踏み入れた。ぴっちりとドアをしめる。手荷物があるのにそれらは肩にさげられていて、空いている両手からはアルコールのにおいがするのだろうと思った。きっちりマスクで顔の半分を覆っている彼女はそういえば唇のきれいな女の子だったのに、それももう長らく拝めていない。赤也が思わず生唾をのみこむほどの女の子だというのに。
 みょうじさんのこわばった目元は一歩一歩と近づいてくるごとにやわらかくなった。きょろきょろとイスを探すしぐさをみせたとき、見つけてそれをベッドのそばに寄せて座ったとき、左手でさらさらとした黒髪を耳にかけてカバンからルーズリーフを探すとき。「はい、これ」。渡すときには大きな瞳をおもいきりつむって笑う。

 その瞬間、病室の空気がガラリと変わる。桜貝の爪ののった指先から漂うアルコールのにおいよりも鮮明に、外の世界を引き連れて彼女はやってくる。

「いつも悪いね」
「ノート取るのすきだからいいよ。字は大丈夫? 私の字、読める?」
「読めるよ。線の細い可愛い字だよね」
「…最近真田君の字、見たんだけれどすごいね。達筆だね。私もあんな字書けたらいいな」
「あれは達筆すぎやしないかい?」
「かっこいいと思うな。あ、やっぱりファイリングまでやらせて」

 サーフから迷わずにリングファイルを引き抜いて、俺の手からもう一度手元に戻ってきたルーズリーフをみょうじさんは丁寧にファイルに綴じていった。たまに、この真ん中のところがくしゃっとなって嫌になっちゃうよね。口ではそんなことを言うのに彼女の指先は迷いなく正しい場所に誘う。
 みょうじさんがいくら親しい部類の女子だとしても真田や蓮二たちテニス部の仲間ほどは親しくないからだろうか。頭の中のみょうじさんにはいつも正しさと安全のイメージが付いてまわる。きっと天女だか天使だかと同じ部類にいて、そうしてにこにこ笑っている。春風に夏空に、秋の穏やかな光や冬のやわらかな白雪といっしょに、外の世界まるごとのそばに佇んで。きっと誰がなにをしようが、彼女はかまわないと微笑む。俺がなにをしようが、なにかができなくなろうが、きっと彼女は変わらない。

「…幸村くん? 具合わるいの?」
「あぁ、いや。なんでもないんだよ。ちょっと考え事をしていただけで」
「ふうん…? あ、そういえばね、最近手を付け始めた絵がなんかこう…不思議なの」
「不思議?」
「うん。なにが決定的に違うってわけでもないんだけれど、ちょっと今までとは趣が違いますねって顧問にも言われるし、私もなんとなく違うなって思うの。でも嫌いじゃなくて、これがもしこれっきりの感覚でも受け入れられると思うし、とにかく描いていたいって思うの。絵筆、離したくないの」

 神妙な目つきで語る彼女の長い黒髪をどこかから吹いた風が揺らした。深々とした瞳をふちどるけぶるような睫毛がより一層彼女を人外のように映えさせた。これが俺の一時の都合の良い幻想だとしても、もしかしたら彼女は。

「完成したら、見てくれる?」

 ルーズリーフのファイルをぱたんととじる音で、はっと焦点が戻った。ぎゅるぎゅるという音までしそうな引き戻される感覚の中途でみょうじさんを見つめる。みょうじさんは空ばかり見る瞳に俺を映していた。引力に寄せられるように頷く俺に彼女はすこしだけ耳を上気させて「じゃあがんばって完成させるね」とおどけてみせる、「それなら俺も早く学校に戻らなきゃね」と返す、その刹那にはたと気づく。
 雁字搦めを上手に泳いで抜けた先の、ひとつの道がそこにはあった。

「んー…っと、それじゃあ帰るね。また来週、いつになるかわからないけれどノート持ってくる」
「うん。…あの、みょうじさん、ありがとう」
「私のノートで良かったらいいように使って」

 また大きな瞳を可憐につむってみょうじさんは病室を出て行った。毎秒毎秒遠ざかる気配にどことなく切ないものを感じながら、俺は彼女の残していったファイルを手に取る。このことだけの感謝ではなかった。
 ふと、彼女のことが見えるかと思って窓の方をみると、どの窓も開いていないことに気がついた。ドアだってぴっちりしめて彼女はこの部屋に入ってきたはずだった。一時の都合の良い幻想が、ばかばかしいとは思いつつも理性のとどかないところで色彩を帯びていく。はやる気持ちをおさえて鍵を開けた窓から外の世界をのぞけば、マスクにもアルコールにも縛られない彼女がはねるように帰路を歩いているのが見えた。細くやわらかな背中に翼がはえる。固くなった背中に翼がはえる。飛びたい、と本能が叫ぶのがきこえた気がした。





 久しぶりの、テニス部員でもなんでもなく3年の生徒のひとりとして登校した学び舎は思ったよりも変わらない場所だった。始業式が始まるよりずっと早くに学校に着いて、花壇の様子を見る。部活で来ていたときも見ていたけれど。花たちはちゃんと夏をこえようとしていた。まだ熱のこもっていない水道をひねって水をやる。土の湿ったにおいはいきもののにおいに似ている。

「幸村くん」

 声が降ってきた。上を見上げると、校舎の2階からみょうじさんが上体を乗り出してこちらに手を振っていた。アルコールの気配もきれいな唇をかくすマスクもない。黒髪のひとすじひとすじまできらきら輝く発光体。

「おかえり、幸村くん」
「…ただいま、みょうじさん」
「言いたいこと、たくさんあるんだけれど…」

 つややかな唇がきゅうとしまった。土のにおいが鼻孔をぬけて、手元がホースの水で濡れても動けないほど彼女に見入る。きっと脳裏にはさまざまなことが質量をもって往来しているのだろう。けれど彼女は言わない。今までその道をぜったいに言わなかったひとだから。それが自分だと信じていたひとだから。

「絵、できたよ」

 にこにこ笑う彼女の後ろに自由になった青空が見える。


Ash.