日に透けて茶色く見えることはあれど、髪の毛を染めたことはまだ一度もない。制服のスカートも入学した当時のまま、切っていないし折ることもしていない。今時は珍しい部類に入るのだろうか、清潔感を第一にある程度整えていても、化粧の類いはせずに素の状態で登校している。真面目であるか否かと問われれば大多数が前者を指すような模範的女子高校生、それがみょうじなまえだった。そんな彼女が今日、初めて勇気ある反抗をしたことに特別な理由はなかった。何故なら、彼女が今まで真面目であると見られていたのは、それこそ教師に目をつけられてまで学校に行かなければならない理由がなかったという、ただそれだけのことだったのだから――。



 ほんのちょっとだし、たぶんばれないはず。僅かな興奮と緊張とでいつもより弾む心臓の辺りを、きゅっと抑えながら通学路を歩く。よく晴れた朝の時間帯は同じ学校の生徒たちがぞろぞろと足並みを揃えている。待ち合わせた友達とおしゃべりをしながら歩く女の子。厳ついヘッドホンで音楽を聴きながら大きな歩幅で歩く男の子。同じ制服を着ているなかで個性溢れる登校風景に溶け込むわたしはひとり、少しばかり早い歩みで学校へ向かっていた。校則に禁止とはっきり書かれていないからと言えども普段の自分からはあまり考えられない、随分と思い切った行動のせいである。途中で見知った友人と会えたならこの緊張もにわかに解れるというものなのに、残念ながら仲の良い子は大体が運動部に所属しており時間が合わないという。もしもばれたら先生に怒られるだろうか、素行が原因では初めてかもしれない。そう考えてはむくむくと膨らむ陰鬱な未来予想を消し去るために、立ち止まって頭を横に振った時だった。さらさらと柔らかな風が舞う。
「あれ。珍しいな」
「い……出水、……君」
 顔に影が差して誰かが横切るのかと思いきや、並んだことに気付いて頭をもたげると、そこに居たのは同じクラスの出水公平その人だった。珍しいと思ったのはむしろわたしのほうで、一言二言交わすことはあったものの、日常的に他愛もない会話が出来るだけの親しい仲ではなかったはずなのだ。彼から話し掛けられたことにびっくりして目を丸くしていると、「はよ」と軽く欠伸混じりに挨拶の言葉が送られた。そういえば彼は、クラスの中でもコミュニケーション能力が高い部類に入る人だったなと思い返す。
「お、おはよう。珍しいってどういう……」
「何となくだけど、もしかして香水つけてね?」
「えっ。わ、分かりやすいかな」
「いやー全然。そんな感じの匂いがしたから試しに言ってみただけっつーか」
 まさか、家から出て数十分という短いあいだでばれることになるとは思わなかった。本当に少ししかつけていない。ひと吹きを両手首と耳の裏辺りに擦り付けただけ。それでもタイミングが合いさえすればどうやら分かるものらしい。歩きながら手首の匂いをすんと嗅いでみる。鼻をつければ確かに分かるけれど、かなり近付かないと香水だとは判別出来ないような気がしてならない。腑に落ちない顔のわたしを尚も珍しいと言わんばかりに、彼はしげしげと眺めている。ばちり。視線が重なるのがどうにも恥ずかしくて俯いてしまった。
「意外だな、香水つけて学校来るようには見えないからさ。あ、別に変な意味じゃねえよ」
「……ええと、先週の休みに家族と出掛けた先で作ったの。オリジナルの香水、お気に入りで」
「へえ。いいじゃん、おれ好きかも」
「あ……ありがと」
 わたしだけがぎこちない会話は時間にしておよそ数分。前方に友人の姿を見つけた出水君はじゃあな、と一言断って去っていった。たったそれだけの短いあいだで、耳に心臓がついたみたいにうるさい音が聞こえてくるのはどうしたことか。友人と小突き合いながら先を歩く出水君の後ろ姿が不思議と鮮明に、視界に映る。好きだと言ってくれた。わたしが選び作った香水の匂いを、出水君は好きだと。数分前より大きく波打つ心臓はまったく静まる気配を見せないので、仕方なく自分の靴の先を見つめながら歩いた。徐々に冷静さを取り戻してきた頭の中でも、思考はひたすらにぐるぐると回るばかり。正門を通ってからも悶々と考えていたけれど答えは出そうもなかったので、上履きを取り出したところでもういいや、と潔く諦めることにした。
 正午を回り、目まぐるしくころころと話題が替わる昼休みを友人と過ごすのは、最早お決まりのパターンだった。いつの間にか飲みきった紅茶の紙パックが手の中では大きく鬱陶しくて、捨てに行くためごみ箱へ向かう。小さな放物線を描いた後、ぱこん、投げ入れるとなんとも間の抜けた音を立てて吸い込まれたそれにあっさりとさよならを告げると、ちょうど教室の扉を開けて出水君が入ってきた。特に話をするでもなかったのに今日は朝の出来事があったからなのか、近くにいたわたしに気付くとはにかんだ笑顔を見せながら話しかけてくれた。彼の口が白い歯を覗かせて柔らかい声を空気に乗せていく様子を、どこか他人事のように見守っている自分がいる。これが所謂、上の空というやつなのだろう。ふわふわと足元が浮くような感覚は初めての体験だった。
 これといって当たり障りのない会話。どんな返答をしたのかいまいち記憶に刻まれていないのが悔しくもあり、どこかほっとしているわたしがいる。たぶんというかほぼ絶対、しどろもどろで相槌を打ったと思われる情けない姿を本能で留めたくなかったからに違いない。どうか出水君の記憶にも刻まれていませんように。滑らかに動かない手足を叱咤して席に戻れば目を輝かせた友人から怒涛の質問攻めを食らい、何でもないからと繰り返し伝えてもとうとう本鈴が鳴るまで放してもらえなかった。わたしの顔から首までが真っ赤だなんて、そんなこと言われても鏡がないから確認のしようがないのに。かといってじゃあはいどうぞ、と鏡を渡されても覗く勇気はとてもじゃないがあるはずもなく、午後の授業でも思考がぐるぐると回ることになってしまったのは辟易した。内容をひとつも理解出来ず、黒板の文字を書き写すのに精一杯だなんて今までの自分からは到底有り得ないことだった。

 HRの終了と同時に友人らは所属する部活動に勤しむ。わたしはと言うと運動が苦手なのもあり、真っ直ぐ帰るのみである。今日は何だかいつもと違って色々なことが起こり過ぎたせいなのか、疲労感が漂うのろのろとした動きでローファーに履き替える。昇降口を出たところでふと気付き、わたしの口からは呟きが零れた。
「出水君、だけだ……」
 手首をひねって近付けても、もう匂いはほとんど残っていない。ラストノートがほんのり鼻を掠める程度のごく僅かな残り香。授業の合間、頬杖をつく振りをしてひとり楽しんでいたけどそんなわたしの様子を友人たちは訝しく思うでもなく、香水には最後まで気付かれなかったので内心ほっとしていた。つまるところわたしがつけた香水に気付いたのは、今朝の出水君唯ひとりだったのだ。歩く足が止まれば、熱が顔に集中していくのが手に取るように分かる。何故かなんて、こうなったらもう不粋としか言いようがない。ぐるぐると回る思考は他でもない出水君のことばかりだった理由に意味を持たせるのなら。もしもこの感情に名前をつけるとするのなら、ひとつしかない。それが何か分からないほど幼くはないけれど、すぐに認めてしまえるほどに大人でもないのでもう少しだけこのままでいたい。小さく胸の奥で走る痛みが心地よく思えた矢先、鮮やかな色彩で瞳に映り込むひとりの後ろ姿を見つけてしまった。声を掛けるべきか否か、答えが出るよりも先に動き出した身体は自分のものじゃないみたいだ。どんな言葉で伝えたらいいか、どんな話をしたらいいか、距離が近くなるほど不安でいっぱいで泣きそうになる。自分から話し掛けられるだけの勇気はわたしにはなかった。それもそのはず、今日の出来事は全部出水君からのアクションがなければひとつとして成立しなかったのだから。滲む視界にそれでも色濃く映る彼の姿を繋ぎ止めたい。

 神様、どうか。祈るのは今回が初めてではないけど、どうか聞いてください。今日生まれた小さい種を育てるために今だけは、力を貸してください。彼がもしも気付いてくれたならきっとこれからは頑張れるから、どうか。

 ――ふわり、ひらり。髪の先が踊った。


Ash.