心がずっと重たいままでいる。傷つかないように傷つかないように、鉛でコーティングを試みてみたけれど、そうだった、鉛って酸化しやすいんだった。酸化皮膜で黒ずんだなりをして、でも中身の腐食はゆるやかだ。
どうせなら心の中まで腐ってしまえ。
やけっぱちにそう考えてみる。心は未だ重い。頭は、というと、大好きな先輩のことばかり考えている。大好きな大好きな黒尾先輩。「放課後、なまえちゃんの教室で待っててよ」、なんてメモ書きがクラスメイトの孤爪経由できたのが1限の授業の後だった。言われた通り放課後、わたしは無人の教室でひとり、待っている。心が重くて重くてよろけてしまいそうで、自分の席についたまま、たまに黒板とか窓の外を眺めたりしていた。薄紅の蕾のついた枝なんか見えてしまって、途端に始まった連想ゲームで泣きそうになる。春なんて来なければ良いのにと散々願い続けたけれど、たぶんそんなことを思っていたのは世界でわたしだけだったのだろう。
「お待たせーっと」
振り返ると黒尾先輩がその高い背をちょっと折り曲げて教室に入ってくるところだった。先輩おそーい! 待ちくたびれちゃったー! どこかから声が聞こえると思ったら自分の声で驚いた。女はみんな生まれながらにして女優ですか、さいですか。黒尾先輩はというと、そのまま私の前の席に横座りして、向き合ったわたしの目の前に大判の本を差し出した。察したわたしは打ちのめされそうな気持ちになりながら、卒業アルバム!なんて上っ面ではしゃぐ。
「書かせてくれるんですか?」
「ていうか、書いてくれる?」
「もちろん」
「わーい黒尾パイセンうれしーい」
「先輩おちゃめー」
笑顔の黒尾先輩と楽しくお話しながら、鉛の心はますます酸化する。フリースペースはすでにメッセージだらけでぎゅうぎゅうになっていた。海先輩とか夜久先輩とか山本くんとか。黒ペンばっかりだったので男の人ばかりなのかと思いきやちゃんと女の人の字と名前もある。なんてったって男子バレー部の元主将だものね。人気者だよね。嫉妬するとかそういうのはもう充分味わったから遠慮したかった。じゃあなまえちゃん、ここらへんにヨロシク。言葉と一緒に黒ペンを渡される。ちょっと大きな空白が腐りきれない心を期待に駆り立てるのでしんどい。
「なに書こうかなぁ。なに書いてほしいですか?」
「なんでもいいけど、...あ。でっかいハートマークとかつけてよ」
「いいですよー」
「黒尾先輩へ」のあとに大きくてツヤツヤしたハートマークを書いたら、ひたすら可愛いなと褒められた。
『黒尾先輩へ
先輩は優しくて面白くてカッコよくて、
それでバレーがとっても上手で!
ずっと憧れていました
バレー部じゃないのにたくさん絡んでくれてありがとうございました
とっても楽しかったです
4月からさみしくなります 今からさみしいです
だいすきな黒尾先輩
卒業してもがんばってください
応援してます みょうじ なまえ』
黒ペンのキャップをかちりとはめながら、女子ってどうしてこう、スイッチが入ると「さみしい」だとか「すき」だとかの言葉に無感動になれるのだろうなんて考えた。書いてみたのに「寂しい」も「大好き」も全然減らない。中途半端に嘘をついたせいで存在を意識してしまって、余計苦しくなるだけだった。
3年生の黒尾先輩と2年生のわたし。共通の所属がないわりには、よくかまってもらった2年間。孤爪にはいろいろとお世話になった。それも明日で終わってしまうけれど。きっと明日のわたしは黒尾先輩の名前が呼ばれる瞬間を耳をそばだてて待っている。その一瞬のシミュレーションばかりしてしまう。壇上の奥行とパイプ椅子のぬるさ。そのうち断罪されるのを待っているみたいだと思えてしまって、でも、それでもやめられずに。
「書けた?」
声をかけられて肩がびくりと揺れた。
「書けましたよー。可愛い後輩なかんじを意識しました」
「そんな設定じみて書かなくても充分なまえちゃんは可愛い後輩だって。さてと」
「...やだ、やだ先輩。書いた人の前で読まないでください、恥ずかしい」
「えーでも気になるしーい」
「家に帰ったら読んでいいですから」
「えーでもなー」
「黒尾先輩?...先輩ったら、もう」
黒尾先輩がわざわざ立ってメッセージを読み始めたので、わたしはため息をついて制止をやめた。可愛い後輩の皮をかぶった文章。黒尾先輩が望む出来にはなっただろうか。可愛い後輩が書いてくれたのだと遠い未来に誰かに自慢できる文章になっただろうか。どうかそのとき、先輩の脳裏にわたしの姿がすこしでもちらつきますように。どうか、どうか。
「なまえちゃん」
降ってきた言葉と一緒に頭を撫でられた。バレーボールをしっかり掴んでいた手だ。ねえ先輩、とても変なことですけれど、バレーボールを5本の指でしっかり掴むその手を見て、その手に触りたいって思っていたんです。その手とわたしの手を繋いで一緒に下校できたらなって、彼女でもないのに変なことですけれど、ずっとずっと、
「ありがとうな」
顔を見てはいけないと分かっていたのに引力に惹かれて、黒尾先輩と目が合った。口元がすこし、微笑んでいるように見える。そうするとばちり、電流が流れたような錯覚がして、涙腺をショートさせた。ぼろぼろと涙が流れる。ぼやけた視界の向こうで黒尾先輩が慌てている。そんなに嫌だったかと心配そうに訊いてくる。わたしはただただ、違います、違いますと首を振るばかりだった。なにひとつ、黒尾先輩のせいではない。たったこれだけのことでセンチメンタルになってしまうわたしが悪い。笑ったままでいたかったなんて未練がましいことを、情けなく泣いているのに思っている。
「...さみしいって、泣いてくれてるのか?」
「......そ、です」
破れかけの可愛い後輩の皮をかぶって、辛うじて返事した。そうすると黒尾先輩は、とても複雑な表情をして、それからまた頭を撫でてくれた。ちょっと嬉しそうに、けれど後輩を泣かせてしまったことを気にやんでいる。優しい先輩だこと。後輩は、あなたのいない学校なんて通う価値がないとかなんて半ば本気で思っているやつですから、そんな顔しないでください。
自分のことを卑下するようなことを思えば思うほど、涙がすこし遠のいていくのが不思議だった。
「なあ、なまえちゃん」
「...はい」
理由をわかっていないのに散々宥められて、ようやく涙が落ち着いてきた頃に、すこし真面目に切り出される。わたしは、黒尾先輩の手の隅々まで覚えておこうと必死だった。
「なまえちゃんに、お礼がしたいんだけれどなにがいい?」
「...お礼?」
「楽しい2年間のお礼」
至極良いことを思いついたように笑いかけられた。わたしはまた、ちょっと複雑になる。だからちょっと、試すようなことを。
「...ずっとそばにいてください」
「...おお?」
「なんて。ねえ先輩、先輩のベストください。卒業式終わったあとでいいから、...だめ?」
「わかったわかった。やるよ」
「わーい!」
大袈裟に喜んでみせて、あぁ終わったと思った。ちょっと挙動不審だった後輩の時間は終わった。先輩のベストってサイズどれくらいですか、やっぱりXXLくらい?ちょっと大きいかなぁ。点々とのこる未練の黒を上書きするようにはしゃいでみせる。さっきの涙は錯覚だと信じてくれたならいいのに。
「じゃあ卒業式終わったあと、連絡するから」
「はーい」
「...でも、べつに、お願いされなくてもそばにいてやるのに」
言葉をのみこむとき、黒尾先輩の指が横髪に触れて、そのまま耳の薄いふちをなぞっていった。すこし顔を傾けて、笑っている。
まだ先輩といっしょにいていいのと訊いたら、どうぞどこまでもなんて返ってきて、世界はわたしを手放したし、わたしは世界を歓迎した。
Ash.