馬鹿な若者と寂しがり屋の大人が詰まった箱。私は毎日そこで救いを探している。
「つまんなそうな顔してるね」
知らない男の人が今日も私のそばに腰掛ける。酔っているのだろう、彼はどっかり腰をくっつけ、肩を抱いてきた。ああこの人があの人だったなら、と私は毎日同じ事ばかり思った。
「ここ、よく来るの?」
男は私の耳元に口をくっつけて話した。こういうのは普通のことだ。うるさい音楽や発狂に、話し声をかき消されないためである。ええ、毎日来ます、と返した。暇なんだね、と、そのサラリーマンらしき男は呟いた。この人、これから自分が死ぬなんて微塵も思ってないんだろうなあ。
「暇ならこれから……行かない?」
男の人が私の腰を抱き、耳元でそう囁いた。頷き返そうとした、そのとき。視界の隅、人混みの奥に待ち望んだ人の顔がちらりと垣間見え、アルコールで霞んだ思考がサアッと晴れる。私はいてもたってもいられず立ち上がった。
「どうしたの?」
と、男が言っているように見えたが、テクノにかき消されて口の動きしか読み取れなかったので無視した。腰の手を振りほどき人混みに突っ込む。けれどもうあの人はどこにも見当たらない。こみ上げる寂寞感を飲み込みながら、私は再び人の波に押し潰されていく。

あの人を初めて見かけたのはいつだったろう。あの人はいつも、夜通し踊る馬鹿の群れにまぎれて怪しく目を光らせていた。誰と仲良くするでもなく女を連れ帰るわけでもない。ふらりと現れてふらりと消える。私がそんな彼に興味を持つようになったのは、彼のある顔を目にしてからだ。とち狂った大音量の中で彼をじっと見ていると突然、周りの音が何も聞こえなくなるくらい恐ろしい顔をする。酔っぱらった若者たちとは違った意味でいかれた目。獲物を探す目だ。底なしの闇を孕んだそれを見ると思わず本能が警告を出す。もうこのクラブには来ちゃいけない、いつか後悔するからと。でも同時に、私はその目を見るたび強いシンパシーもまた感じて、恐怖するどころか魅了されるようになり、足繁くこの場に通い始めた。今日、彼は来ているだろうか、と淡い期待を抱いて。
彼がいない日は適当に声をかけてくれた男の人で欲を満たす。今までだってそうしてきたのだから文句はない。でもそんなおざなりの日々を浪費しているうちは、いつまでたっても地獄を抜け出せやしないのだ。

今日も私はこの箱を訪れた。辛抱強くあの人を探すけれど見つからない。朝が近い、そろそろ今日のおもちゃを捕まえなければ、とぼんやり思う。窓のない建物の中でも時刻は感覚でわかる。体に溜まった疲労や欲求不満の加減で何となく。私は人より何倍も鋭い感覚を持っていると自負しているから、体内時計の正確さにも自信があるのだ。時間は大事だ。決まった時間に決まった人数、そして決まった箇所、肋骨と肋骨の間に一寸も狂わずナイフを差し込む、それが私の仕事であり趣味だから。私はおかしい。この胸に人として異常な衝動を飼っている。だから欲を満たすためにも毎晩狩りに出なくてはならなくて、そんな自分に吐き気がするのだ。毎日が猟奇的快感と不快感で満ちていて、何も変わらず、朝が来て働いて家に帰って寝てまたここに来る。こんな疲れた世界を劇的に覆す何かが欲しい。その何かを私はいつも見失い、今日もあの人と話すことは叶わないけれど。

「誰を待ってるの?」
そう思った矢先のことだった。あまりにも突然、耳元で艶やかな声が響き私の脳髄を揺らす。ゾッとしてすかさず振り返ると、声にならない声が漏れた。緑や紫のライトが逆光で目の前の彼を影に変えている。顔が良く見えない。けれど、この人の目を私はずっと前から知っている。
「きみ、いつもぼくを見てたよね」
いつものように、ふと世界が無音に包まれ、彼の言葉がはっきり私の鼓膜に届いた。私は静寂が終わってしまう前に慌てて言葉を紡いだ。
「あなたをっ」
待っていた、と言いかけたとき再び世界は騒音まみれに戻る。ぐいっと目の前の影がかがみ、私の耳に彼の唇が触れた。
「いつもじっくり見られてコーフンしちゃった。もう我慢できない」
何度目か知れぬ警報が私の中で悲鳴のように轟いた。ああ私、今日死ぬんだ。と、本能で理解した。いつの間にか彼に腰を抱かれている。このままついていけばナイフで刺されてしまうかもしれない。でもその殺意が心地よい。きっと彼は、この世のあらゆる憂いから私を解放してくれる。
「もったいないから手を出さないでいたけど……君がそんな目をするのがいけないんだよ」
いかにもこれから女を犯す男が吐きそうな台詞を彼は嬉嬉として述べた。
「ぼくと抜け出さない?」
どんな激しい音楽より、どんな強いアルコールより、そしてどんな優しい愛情より深く私の心を揺さぶったその合言葉に頷き、狂った箱の外へ二人で歩み出た。閑散としたビルの狭間には月明かりが満ちていた。よく見ると東の果てにうっすら朝焼けが覗いている。
「ありがとう、名前も知らぬ素敵な人」
そう囁いて微笑むと彼もにっこり笑ってくれた。逃げ場ひとつない浮世に生まれて以来、初めて幸福を感じた瞬間だった。ああ、たぶん私はずっと前から、私よりいかれた人に会いたかったんだ。どうしようもない世界とか自分とか命とか、そういうものを全部消し去って私を眠らせてくれる人に。


Ash.