「はああ……」

 自然とこぼれるため息を吐き出した司書は、司書室の奥にひっそりと置かれている、大人二人とこども一人ほどなら優に座ることのできる深緑のソファーへ腰をしずめた。
 背中を柔らかな背もたれに預け、全身の力を抜くように両足をゆるやかに伸ばす。疲労の色が濃い瞼を深く閉じて、それから彼女は再びため息を吐き出した。

 その様子を、小林多喜二は助手用にあてがわれた机の前の椅子に座ったまま静観していた。
 ソファーは出入口から見ると背中を向くように置かれている。小林の位置からも司書の顔が見えるか見えないかほどの絶妙な位置づけだった。
 彼女曰くそこに死角を作りたいらしいが、この部屋の四角い形の間取りから考えてそれは難しい。
 兎に角、わずかばかりでも身を潜められる場所が欲しい、という彼女のささやかな願いから、そこはひとまず入り口から見て丸見えの状態は避けられていた。
 ソファーは壁際に寄せられており、透明な窓硝子を通して冬のあたたかな陽射しが穏静な午後を包み込む。それはスパンコールのような光の粒となって司書の髪をきらきらと照らし、ゆるやかな空気と微睡んでいた。

 彼女が疲労の色を濃くしているのは今に限ったことではない。
 小林が彼女の助手になってから十日目だが、傍らで仕事ぶりを見る限り、どうやら『特務司書』という仕事は生半可な体力と精神力ではこなすことが出来るわけではないようだった。
 仕事の一部として、有魂書や有碍書への潜書の準備や実行、館内の書物や備品の管理、食堂の管轄、その他資料整理や書類作成などを行う。それらをこなすと気付けば空が青色から橙色に、存分に忙しければ漆黒を帯びていることも少なくない。
 加えてこの帝國図書館に転生された、書物の執筆者たる文豪達が事あるごとに司書を尋ねる。それも必要な事柄であればまだしも、些末な、司書に尋ねなくとも解決するだろうことを尋ねて来る者もいる。彼女は全てを無下にせず丁寧に応対しているようで、端からみても疲労が溜まるのも無理はないと小林は感じていた。
 そうして時折、人と人がいなくなる合間に、彼女は今現在のように司書室の隅に隠れることがある。司書がソファーに身を預けて心身の疲弊を拭うようにしていることも助手になってから知ったことだった。

 小林は右手で握っていた黒い万年筆を机の上に置くと、音を立てないよう気を付けて椅子から立ち上がる。そして室内の奥に備えてある小さな木製の戸棚へ行き、その一番上の引き出しから白地にピンク色の水玉模様が刷られたマグカップと、紅茶の茶葉が入った円筒型のアルミ缶を手に取った。
 司書室から給湯室や食堂へ行くにはいささか距離がある。
 そのため、戸棚には室内で飲み物の準備ができるようにいくつかのマグカップやグラス、紅茶や珈琲の粉の類いがストックされていた。冬場の間はストーブの上に置いてあるやかんの中の水、今はお湯となったそれであたたかな飲み物を作っている。
 小林は水玉模様のマグカップに紅茶を淹れると司書のいるソファーへ足を運んだ。そして、彼女の座る左隣のゆったりと空いているスペースへ腰をおろし、マグカップを差し出した。

「お疲れ様」
「えっ、わ、ありがとうございます!」

 司書はぱちりと瞬きをしてから小林の顏と差し出された自身のマグカップを交互に見遣る。

「いただいて良いんですか……?」

 小林が頷くと司書は頬をほころばせ、ありがとうございます、と改めてお礼を伝え両手でそれを受け取った。
 彼女の掌を温める白磁のカップの中は、こくりとした琥珀色の深い海が広がり、やわらかな白い湯気が立つ。それを唇に寄せ一口含むと彼女の眦はゆるゆると下がった。

「おいしいです……小林先生がいれてくださる飲み物はいつも美味しいですよね。実はひそかな楽しみです」
「期待されるほどのものは作ってないよ」
「いいえ、先日頂いたコーヒーも自分でいれるものとは違いました。何かコツがあるんでしょうか」

 司書の問いにコツとなる部分を考えるものの、小林自身は何も思い浮かばずにかぶりを横に振る。彼女はその様子を見て、そうですか、と言いわずかに肩を落とし再びマグカップの縁に唇を付けた。

「そういえば頼まれた書類作成がもうすぐ終わりそうだけど、他にやる事はない?」
「ありがとうございます! そしたら……明日までにここに来てからの月次報告書を月別にまとめなければならないんですけど、お願いしてもいいですか?」
「わかった。今日中に揃えて確認できる状態にしておくよ」

 新しい仕事の依頼に答えたものの司書からの返事がない。訝しく思い右隣に視線を向けると、彼女は眉根を寄せ、瞳をぱちぱちと瞬きさせ小林の顏を見つめている。何か変な応答をしたのかと首を傾げる小林に向かい、司書はゆっくりと桜色の唇を開いた。

「小林先生は、どうしてそんなに気が利くんですか……」
「……?? 気を利かせてはいないよ」
「いえ、もう……色々と助かってます……」

 ありがとうございます、と感慨深げな表情を滲ませてお礼を伝える司書に向かって小林は、大袈裟だよ、と小さく笑いながらこたえる。

「アンタの手伝いをするのが助手の仕事だよね」
「そうですけど……そうだ、その仕事が終わったら今日はもうやることがないので早く切り上げてくださいね」
「わかった。……アンタは?」
「……私ですか?」
「そう。夜中も仕事してたって言ってたよね」
「はい。急ぎで今までの研究の報告書一覧が必要になったので明け方まで作っていて……」
「ふーん……それで、今日は朝から潜書に付きっきり」
「はい、でも、小林先生が作成してくださった書類で終わりです。本当に助かりました」

 にこにこと瞼を細めながら答える司書に、小林はそれ以上は言葉を紡がずに静かに微笑んだ。そして、そういえば、と切り返す。

「今日は有碍書の潜書に時間が掛かったみたいだね」
「……そうですね……今日の会派は森先生と太宰先生と萩原先生と島崎先生の番だったんですけど、森先生以外の皆さんが耗弱してしまって、補修室まで行くのに時間がかかったんです」
「……なるほど」

 有碍書、というものは本の世界を蝕む者が蔓延り、放っておけばこの世界から小林も含むこの図書館に転生された、文豪達の血肉や魂を削ぎ落とし生みだされた書物が無いものとされるらしい。
そこに潜む魑魅魍魎の類いと戦い本の世界を守ることが、ここにいる転生された文豪たる面々の本懐だった。そして、戦いは日々隣に座る司書の指揮の元で行なわれている。
その有碍書の中に潜ることは、精神との戦いでもあった。与えられるダメージは、外傷以上に精神への影響が大きい。
 小林自身も先ほど名前のあがった面々と会派を組んだことが何度かある。
傷を負った時、森はそう大きな動揺をみせることはないが、太宰や萩原、島崎は「もう無理」とか「もう死ぬ」と言い、陰鬱な空気とともに消え入りそうな、むしろ本当に消えかけて大騒動になった事例が多々あることを小林は思い出す。今日も戦いというより、彼らが正常な精神に戻るまでに時間がかかったのだろう。

「……会派は出来るだけ、仲が余程悪くないのであれば、色々な方と組むようにしたいんです。これからどんなことが起こるかもわからないですし……」

 司書は独り言のように呟くと、両手を口元にあてて小さな欠伸をした。
小林が彼女に視線を向けると、外から差し込むあたたかな陽射しがその白い頬をやさしく撫でている。瞼はとろりと下がって、うつらうつらと船を漕ぎはじめているようだった。
 その様子を見た小林は、彼女の手元にある、ほとんど中身のないマグカップをゆっくりと起こさないように取る。カップの持ち手を握る司書の指先をやさしく摘んで外し、彼の手元に移動させると、司書がいつもここで飲み物をのむ時と同じように窓辺の縁にそれを置いた。
 それから小さな寝息を立てはじめた司書を起こすか起こさないか逡巡していると、音のない静かな室内のずっと先から、カツ、カツ、と微かな靴音が小林の耳元に届く。それは徐々にこちらへ向かっているようだった。おそらく、誰かが司書に要り用なのだろう。寝不足の中、折角眠ったばかりで起こすのは難儀だと考えた末に、小林は司書の肩をそっと掴んで彼女のからだをゆっくりと傾けさせる。
 司書の頭を彼の膝元にのせ、彼女のからだが出入り口から見て完全に見えない形をとることにした。訪れる者の用件の緊急性が高いのならば、起こせばいいだけの話だ。
 靴音は近づくほど大きくなり、程なくして部屋の入り口でぴたりと止まった。それから硬いノック音が二、三ほど聞こえ、扉は音を立てて開かれた。

「……あれえ、お司書はんこっちにおらへん?」

 明るく軽快な声色を放ち現れた織田作之助は、長身の体躯を屈ませるようにして司書室を覗き込む。その反動で三つ編みの、彼の身体の右側にまとめられた長い髪の先は腰元で小さく揺れている。小林は顏だけでわずかに振り向き、フード越しの視界の端で織田の様子をみとめると、形のいい唇を開いた。

「……今ここにはいないよ。しばらく戻らないんじゃないかな」
「ふーん、まあ急ぎやないし後でええか」

 おおきにー、と変わらず抑揚な声で小林の応答に返す織田は踵を返して司書室を後にした。ぱたん、と扉は閉まり、静寂な空気が再び室内を包みこむ。足音が遠くに聞こえてから小林は膝の上に頭をのせて眠る司書に視線を落とし、彼女のやわらかな髪を右の掌でそっと撫でて小さく呟いた。

「おやすみ、なまえサン」

 その声は午後のあたたかな陽射しとまどろみ、小さな寝息を立てる司書の耳元へやわらかくこぼれ落ちたのだった。


Ash.