まず驚いたのは兵卒が活き活きと働いていることだった。誰もが総大将の為にと一丸となっている。認めたくはないが、それはあの日の私たちが目標として掲げた理想そのものの光景だった。戴く御旗が違うだけで。
「アンタ、逃げてきたんだってな」
揶揄するように嗤って馬上から声をかけてきたのは隻眼の竜だった。東国に伊達政宗ありと謳われた大大名で、武将にしておくのが惜しいような色男である。
「正解だったと思うぜ」
私の記憶違いで無ければ、顔を合わせたのはこれが初めての筈だが、まるで従来の友人のように気安げな口調で語りかけてくる。雑談でもしようというのか、颯爽と馬から降りてきた。口許に不敵な笑みが滲む。
「何せ、此方には俺がいる。…get it?」
誇大でも妄言でもない証拠に、この名将が戦列に加わってからの東方の戦果は目を見張るものがある。噂によれば三成に個人的な因縁があるらしいが、西陣営ではそんな話、聞いたこともなかった。怨恨そのものみたいなあの男が、己に向けられた怨嗟を正しく認識できていたようには思えないが。
「そうだね、正しいね」
あやすような口調になった。
秀吉様ではない何かを、自分が正しいと思う日が来てしまったことが、ただ堪らなく淋しい。
位や待遇に関係無く、脱走する兵は後を絶たなかった。凶王一人では、斬れる数に限界がある。とはいえ、常人よりは余程魔物に近い男であるから、それはそれはよく斬り伏せた。恐怖か、或いは憐憫で以てして奴の前に膝をついた者たち。それが今の覇王軍で、それがすべてだ。かつて脅威だった、一つの時代の亡霊。目まぐるしい世の移ろいに置き去りにされた者たち。私もまた、その一部であった。豊臣の権威と共に朽ち果てる心算でいたし、それが当然だと疑うことさえしなかった、それなのに。
「よく儂を頼って来てくれた。もう大丈夫だ。疲れただろう、ゆっくり休むといい」
気が付けば、私は手勢を引き連れて山を越え、泥に塗れた姿で家康の前に座り込んでいた。裏切り者だと憎み、謗ってきた男は優しく私の頬にこびりついた土を拭った。それだけのことで、察してしまえる己がいた。次の天下人は、家康だと。
秀吉様の後継者は三成であると、半兵衛様は早くから公言されていた。私は半信半疑だったけれど、半兵衛様が言うからには何か考えがあってのことだろうと、楽観的に構えていた。今ならわかることがある。三成だけでは、駄目だったのだ。あの強大な秀吉様ですら、一人ではなし得なかったことがあるように。欠落そのもののような、三成では。彼が天の上に立つのは、刑部がいて、家康がいて、おまけに如水までつけて、漸く成立する筋書きだったのだ。刑部が病に倒れなければ、家康が離反しなければ、如水に野心が無ければ、もしかしたらあったかもしれない繁栄。けれども、そうはならなかった。半兵衛様は草葉の陰で泣いているだろうか。それとも、覇王という象徴を欠いた我々に、最早何の興味もないだろうか。この国は今、荒れている。踏み散らかされた田畑が、打ち捨てられた骸が、お前たちのせいだと無言で訴えている。そうでなくとも、太閤亡き後、豊臣への民の憎悪は深い。戦続きでまともな暮らしをさせなかったからだ。家康が蜂起してから、嘆きの声はますます大きくなった。彼奴こそが救世主であり、名君であると。まともな精神の持ち主なら、怨嗟渦巻くあの城に、一秒だっていられないだろう。大坂城の門番が、私を引きとめようとはしなかったのは双方にとって僥倖だったと言わざるを得ない。邪魔立てするようなら斬り捨てる心算でいた、私もとうに病んでいた。
「HEY!浮かない顔してんじゃねーよ」
私の追想を破ったのは、またもや奥州筆頭だった。どうやら彼は私が気になって仕方がないらしい。東国では、女将がそんなに珍しいのだろうか。
「アンタ、石田三成の情人だったらしいな」
からかうような調子だったが、どうやら軽口ではないようだ。なるほど、気になっていたのはその俗な噂だったか。
「あの不器用な男が他人と情など交わせるもんか」
三成の神経質そうな横顔を思い出して、つい笑ってしまったのだけれど、それをどう受け取ったのか、政宗は不服そうに唇を尖らせた。
「茶化すなよhoney、こいつは由々しき事態だ」
政宗は大真面目に言う。なるほど、この隻眼の男はあの城内の混乱を知らないのだ。色恋など生まれる訳がない、既に死したも同然のあの場所では。
「そっちこそ、冗談ならもっと面白いので頼むよ」
私と三成の間には、何もない。言外にそう匂わせてやれば、政宗はやっといつもの不敵な笑みを取り戻した。
「確かにjokeとしては最悪だった、忘れてくれ」
私は彼に倣って南蛮風に肩を竦めることで返事の代わりにする。
嘘はついていない。私は三成の情婦であったことなどないのだから。心を通わせるには、あまりにも、私たちは近過ぎた。その一方で、どうしようもなく彼に惹かれていることにも自覚的だった。家康が光を纏っているならば、三成の周囲には常に闇が逆巻いている。得体の知れない翳りは、時を重ねる毎に重く色濃くなっていった。即ち、失っていく度に。私はそれをただ見ていた。裏を返せば、三成以外のものは一切この目に映そうとしなかった。天下がどうなろうが、知ったことか。私の粘っこく糸を引くような視線さえ、三成の意識下に入り込むことは不可能だったらしい。彼は己の胸中に抉られた、血みどろの空虚にしか興味がなかった。国家のことなど考えたこともなかったに違いない。我等は時代を省みなかった。だから世相に屠られる。簡単な話だ。では、何故私は逃げたのか。これもまた、単純な話。気付いてしまったからだ。近くにいてはいつまでも、あの男の視界に入ることすらできないと。
ある程度予測できていたことだが、私を筆頭に、大坂城の内部によく通じた者が先陣を斬らされた。共闘を命じられてはいるが、伊達軍はお飾りというか、此方の見張りであろう。本人も重々承知なのだろう、すぐ横で馬を走らせる政宗は不機嫌そうにすら見えた。腕を組んで背筋を伸ばしている。手綱を握ったほうが走りやすいだろうに、奇特なことである。
「奥州筆頭を見込んで、頼みがあるんだけど…」
豊臣家の権威の象徴であり、覇王軍の総本山にして、凶王隊の最後の砦。大坂城はもう目前に迫っている。
「OK、言ってみな」
政宗の快諾を受けて、私は進み出た。彼の正面に回り込んで、深々と頭を下げる。本来なら馬から降りるべきなのだろうが、それをするには時が惜しい。
「私の部下をよろしく頼みます」
天下統一の為に尽力し、その後も主人だからというだけの理由で私に仕え続けてくれた兵者たちだ。あの賢人のお墨付きである彼等は、きっと政宗の役に立つだろう。彼等まで豊臣に殉ずる必要はない。政宗なら上手く立ち回ってくれる筈だ。
「アンタはどうなる?」
答えずに、駆け出した。それが返事になると信じて。
城内に連れて入る訳にもいかないので、馬は途中で乗り捨てた。運が良ければ東軍の誰かが拾ってくれるだろう。籠城中と聞いているのに、人の気配がないのがなんとも不気味だった。勝手知ったる裏口から侵入しているとはいえ、これは些か異常である。もしかしたら、凶王が全員斬り伏せてしまった後なのかもしれない。あり得なくもない妄想だ。真実の意味での彼奴の味方など、此処には誰もいなかったのだから。
「…よくも抜け抜けと私の前にその面を晒せたものだ」
秀吉様の冥福を祈って、三成がつい最近建立した御堂。私の迷妄を裏付けるように、彼は独りで其処にいた。見落としてしまいそうなほど僅かな血の跡が床に落ちている。
「恥を知れッ!そして跪き、悔恨に噎べッ!」
喚きながらこちらを振り返った三成の、悪鬼の形相の頬に赤い河が流れている。涙は枯れ果てて、いつの間にか血に変わったらしい。
「後悔はしていないよ」
実物よりも随分大きな秀吉様の木像が私たちを見下ろしている。せっかく逃げたのに。私は帰ってきてしまった。秀吉様は私を変わらぬと笑まれるだろうか。それとも、愚かだと一喝するのだろうか。
「ならば此処に何をしに来た?…返答如何によってはその首級は無いものと思え!」
家康や政宗が創る新しい時代に、私たちの居場所はないだろう。ここまできたら、あとは汚名を被るだけ被って死ぬだけだ。それが先の世の為でもある。私たちがどうでもいいと目を背け続けた未来の。
「私は貴方を断罪しに戻ってきたんだよ」
そして私も裁かれる。大丈夫、私たちがいなくても、私たちが掲げた理想は家康が必ず達成する。何度も言うが、戴く御旗が違うだけだ。そして、民にとっては権力者など誰でもいい。それが名君であればそれで。ならば、家康の方が余程相応しい。
「断罪だと?…貴様も私が、秀吉様が、間違っていたと宣うのかぁあッ!」
三成が激昂しながら鞘を払った。赤い雫が足許に零れる。その通りだと頷いてやるには、どうやら少し時間が足りないようだ。本当は伝えてやりたかった。咎人として死んでいく道しか残されていないであろう、三成に。これから理想を実現させるであろう、家康もまた私たちと同じ罪を抱くのだと。
Ash.