私は初めて心底この男の手から逃れたいと思ったのだ。
彼は笑顔を振り撒く人間だという事も、そういう行為で周り持て囃される事も、それを快楽として喜んでいる事も、私には分かっていた。
別に彼氏とかそういう間柄ではなくて、ただのおさななじみなだけだった。おさない頃から共に育ってきた、それだけの関係だけれど、私しか知らない彼の秘密も沢山あるものだ。
人の目を引くような端正な顔立ちをしているのだから、小学生か中学二年生くらいまでは、幼馴染みの秘密を知っている事に優越感を覚えた。だって、彼はかっこよかったから。
頭は良くないけれど運動神経も良いし、そこそこ性格も良いし、顔も良ければ身長も高いし。モデルになった、と言われた時もすんなり納得出来た。

私は高校は何処かちゃんと頭の良い所に行くつもりだった。例えば秀徳とか、霧崎第一だって悪くないと思っていたけれど、幼馴染みが私に泣き付いてきたのだ。
海常にスポーツ推薦で行くから付いてきて欲しい、と。海常高校は偏差値も高くないし、私立でお金もかかる。幾ら幼馴染みだとはいえ、私は最初は嫌だったのだ。私立の併願は仕方ないので海常にしたのだが。
そうしたら勿論公立は受かった。けれど海常高校には特待生で受かってしまったのだ。それを親に相談したら、特待生なら金がかからない、とにっこり笑顔で海常に行って来な、と言われてしまったのだ。

「特待生なんて凄いっス、なまえ」
「海常かあ。生徒会にでも入ろうかなあ」
「流石っスね」
「私は運動とか得意じゃないからね、涼太みたいに。模倣なんて出来ないし……」

勉強能力も模倣とか出来ないのかな。なんてぼんやり考えていた。制服は一緒に買いに行って、必要になるであろうノートや文具も一緒に買いに行った。何をするにも一緒、とは言えなかったけれど、家も近いし幼馴染みだし、行動を共にすることは多かった。涼太が大っぴらに「幼馴染みっス!」とか言うものだから彼のファンに敵視されることもなく、逆に相談されたりしていて、安定した充実した中学時代を過ごせた。

「高校入ったらどうするの? やっぱりバスケ?」
「勿論! なまえ、マネージャーやったらどうっスか?」
「さっき言ったでしょ、生徒会に入るの」
「ええー! オレなまえ居ないと死んじゃうっスー!」

そんな訳ないでしょ、と私は涼太を引き剥がす。泣きそうな顔して、潤んだ目で見詰められると断りにくくなる。私は他所を向いて涼太が諦めるのを待っていた。大体こうすれば彼は渋々諦めるのだ。
けれど今回ばかりは違ったようだ。私の方をじっと見詰めて「オレは諦めないっスよ」と言うのだ。高校入学まであと数日あるけれど、その間に私の決心が揺らいでしまったらどうしよう、と私は恐ろしくなった。
高校に入った時に涼太の依存癖が抜けていて欲しい、とただ切に願うだけだった。これ以上私に執着したところで意味なんて無いのだから。


▲▼▲



その晩に電話がかかってきた。涼太だけすぐに分かるように着信音を変えている。携帯を取って耳に当てると聞き慣れた、ついさっきまで聞いていたような声が聞こえてきた。

「なあに」
「入学式、一緒に行こうね」
「じゃあ早起きしてよ」
「オレを起こしに来てくれるっスよね」
「人任せにしないの」

それでもきっと私は起こしに行ってしまうんだろうなあ。私も結局過保護で、涼太があんな風に私に執着するのも無理はない、と自惚れた。何でも運動の類なら出来てしまう涼太はどのスポーツも長続きしなかった。だから彼には執着心が人よりもない。そしてその執着心は人相手に出てしまった。そう、私とか青峰くんとか黒子くんとか。顕著に表れてしまったのだ。
私が少しでも彼に優しくするのを止めれば、過保護になるのを控えれば少しは変わるだろうか。何も出来ない癖に、何も変えられない癖に空想だけを並べて考えている私は結局無能以外の何者でもないのだ。

結局私は入学式の日に涼太を起こしに行って、支度をして、二人で新しい学校へと進んで行ったのだ。バスケ部のマネージャーにはならないけれど、少しでも彼の支えになれるように頻繁に差し入れをしたりした。
その他にも彼を好く女性のお手伝いをしたり、ちょっとした相談を受けたりした。涼太は部活で、私は生徒会で。私たちの時間軸は徐々にズレていき、気付いた頃にはお互いを認識することや、共に行動することも減って行った。
そして結局、挙句の果てにそれが引き起こしたのは、涼太が人と付き合う事だった。絶望と共に心底安堵した。八割が安堵だった。
私に執着しないで、バスケとプライベートを両立して、少し成長したのだと親目線のようだったけれど安心した。中学の時は執着出来る人が少なかったのもある。

「あっ、黄瀬くんだあ!」「涼太くーん! 今日もカッコイイね!」「試合見に行ったよぉ!」
女の子たちの黄色い声が気付けば大きくなっていた。毎日一度は必ず掛かってきた電話も無くなって、私にも友達が出来たので一緒にご飯を食べることもなくなって、最初は待っていた部活終わりも待たなくなった。これが高校生活か、と少し寂しかったけれど私にとっては充実してたのだ。
だって涼太の縛りを感じなくなったのだ。彼は束縛しない女が好きだと言っていたが、私からすれば彼の束縛から逃げられて嬉しかったのだ。そう、私は、逃げたかったんだ。

「君は、そう、黄瀬の──」
「ああ、涼太の先輩の……涼太がお世話になってます」
「親みたいなことを言うんだな」
「実際親みたいなもんですよ」
「待たなくていいのか?」
「え? ええ、もう、ずっと待ってないので」

先輩は少しだけ困った表情で「そうか」とだけ呟いて、手を挙げて体育館の方に向かって走っていった。
そこでピロリンとコミカルな音楽と共にラインのメッセージを受け取った。そこには『ごめーん、急に生徒会入ったので今日よろしくね』と書いてあった。私は呆れを孕んだ溜息を深く吐いて、反対方向の道へ進んでいった。帰りが遅くならないことを願うだけだ。

結局帰りは八時を過ぎてしまっていた。生徒会役員で話し合いをした後に行事のことについて決めたりと時間はどんどん削られて行ったのだ。家に着いた頃には九時を回っていた。怒られるかなあ、と不安を抱えながら自分の家に着いた時に私はギョッとした。
携帯をつまらなそうに弄りながら、自宅のドアの前に座り込んでいた。言葉も出なくて、私が呆然と立ち竦んでいると、涼太は顔を上げて私の名前を呼んだ。

「な、なに、してるの」
「なまえが帰って来ないから」
「涼太、もう良くないよ、そういうの」
「オレは心配してるだけっスよ」
「だから──!!」

立ち上がった涼太は私の腕を掴んで引き寄せた。力はやっぱり強いし、身長差もあるから恐ろしくなった。私が小さい頃からかっていた涼太でも無いし、私の知っている涼太とは違うように感じたからだ。

「や、やだ!」
「なんで逃げるんスかー、昔はよくやったじゃん」
「だって彼女いるでしょ? 良くないよ」
「彼女いなかったらいいんスね、別れるッス」

携帯を手早く弄って電話をかけて、淡々とした声で「別れよ」と告げてそのまま電源を落とした。淡白な涼太。安堵していた私は、もう安堵の気持ちなど微塵も抱いていなかった。彼は私への執着心を忘れたわけでは無いようだ。
逃げたい、逃げ出したい。でも、ドアは塞がれているし逃げ場なんてなかった。そこで冒頭に戻る。私は心底この男の手から逃げ出したいと思ったのだ。
夜遅くに、街灯も少ない。涼太の顔もまともに見られなくて怯えしか無くて泣きそうになってしまった。

「止めようよ、私耐えられない」
「……逃げるんスか? 前もそうだったよね」
「何が……もう充分でしょ」
「でもオレはなまえが居ないと死んじゃうよ?」

それでもいいの? 悪魔の囁きが私の脳内を蝕む。どろどろと溶けだすように脳内を蝕んでいく。前もそうだった。私は前も逃げ出したくて逃げ出したことがあるんだ。関係性を断ち切りたくて。私にも好きな人が出来て、だから涼太とは一緒に居たくなかった。勘違いされる、とは思ってなかったけれど好きだった人に近付くために。
でも結局涼太は離れてはくれなくて、意を決して告白したら、黄瀬が好きなんじゃないの?、と驚かれた始末だ。その時大喧嘩した、けれど、結局私は許してしまったのだ。

「また逃げ出したり、しないっスよね」
「……」
「だってなまえはオレが大好きだもん」
「……ち、ちが」
「世界の誰よりもオレが好きだもんね」
「……私は」

ぼろ、ぼろぼろ、ぼろ、ぼろ。涙が溢れてきた。否定出来ない私を涼太は軽く抱き締めた。体温が高くて、心臓の音が間近に聞こえてきそうだった。喉まで昇ってきた言葉をごくりと唾と一緒に飲み込んだ。
わた、しは。わたしは、 顔を上げると端正な顔が私を見てた。長い睫毛も綺麗な金の髪も、凡そ日本人らしくないその顔は私を見つめていて、決して視線を逸らさなかった。だからだろうか、私はまた彼を許してしまうのだ。
逃げ出したいと思っても、結局逃げ出せずに彼の腕の中に留まる。その異常と言える依存と執着心がいつか私以外に向かうことを切に願いながら私は未だ彼の腕の中に抱かれていた。こうやって私はいつまでも彼から逃れられないのだ。私は彼のいない世界を知らないまま。


Ash.