言葉って、毒みたいなものだってはじめて知った。喉の奥を苦く通ってじわじわと染み出す毒。「すきなひとができた」とというたったの数文字の毒を、「わかった」とわたしはいとも簡単に簡単に受け入れて飲み込んだ。わたしの数年にわたった春は終止符を打ち、両手の花束はぼろぼろと色を失って枯れていった。わたしの春は終わってしまった。







春だというのに、わたしはまだまだ冬にうずくまっている。緊張に包まれたフレッシュな新人を見ても、はらはらと散る桜を見ても、やっぱり浮かれた気持ちになんて一切ならないし、わたしの心には芽吹くものすらひとつとしてなかった。わいわいと恋愛話に花を咲かせる同僚のピンクの花咲く話を聞く気にも、ぽっかりと胸に空いた穴を無理に埋める気にもなれず、一人でお弁当を食べる寂しいお昼。あーあ、大好きな卵焼きを作るのも忘れちゃったなあ。


「なにシケた顔してんだ」
「片倉課長、」


どんっと隣に腰を下ろすのは、入社一年目からお世話になっている直属の上司。きちっと固めた黒髪に、鋭い刀のような瞳。眉間に深く刻まれた皺から生まれる第一印象は決して良いものではないけれど、強面ながら整った顔立ちの上司に、彼に恋したひとは数知れず、そして一睨みでその淡い恋心を一瞬にして散らしたひとも数知れず。話せばとてもいいひとなのだけど。


「話くらいは聞いてやる」
「…結構です」
「俺にそんなこと言えるのお前くらいだよ」
「それは、ありがとうございます」


かわいくない。そういうところが、あのひとが離れていった原因なのかなあ。ふわっと香る香水のにおいにああそういえばあのひとも香水をつけていたなあと今さらになって思い出す。あのひととは違う香り、でもどんな香りだったか、思い出せない。思い出せないほどにわたしから離れていってしまった。この間から別れを告げられてから思い出さないようにしていた身体中にふくふくと沸き上がる毒。くちびるをぎゅっと結んだ時、右頬にぴりっと痛みが走る。片倉課長がわたしの頬をつねっていた。日頃の仕事に打ち込む厳しい目でも、時折見せる穏やかな目でもなかった。


「みょうじ、今晩飲みに行くぞ」







片倉課長と飲みにくるのははじめてじゃない。気持ちの緩みもあったかもしれない。気づいた時にはジョッキやカクテルがあっという間に空っぽになってしまった。片倉課長は、「おいおい、飲み過ぎだ」と言うものの決して止めることはなかった。


「すきなひとが、できたんですって」


お酒により招いた気の緩みが、とうとう爆発してしまった。別れを告げられてから、一度だって泣かなかったし、誰かに愚痴を零すこともなかった。また、もしかしたら戻れるかもしれないって、思っていたから口に出したら叶わなくなってしまうような気がしていた。でも飲みに飲んで頭が逆に冴えてきてしまった。見えないように蓋をしていた現実がふつふつと姿を現して、枯れた花が元に戻ることはないということをまざまざと見せつける。


「……ほう、そりゃあお前みてェないい女を捨てるなんざ見る目がねェな」
「またまたご冗談を。…でも、なぐさめてくれてありがとうございます。わたし、いい上司を持つことができましたね」


こういう時の片倉課長は本当に優しい。以前仕事でミスをした時にわあわあ泣くわたしの背筋をぴしゃりと伸ばしてくれたこともあった。本当によい上司を持ったなあ。お酒のせいか感傷に浸ると涙腺が緩んで視界に膜が張る。ゆらゆらと歪む片倉課長が驚いたような顔をすると同時に決壊したようにぽろぽろと大粒の涙がカウンターに染みを作った。本当にすきだった、それだけじゃあ駄目なことも知っていた、でも、ほんとうにすきだったんだよ。赤信号がもどかしくて少しでも早く会いたいとかスーパーのお菓子やお酒のコーナーで互いのすきなものを選ぶとか他愛もないことが世界を色付けるほどにすきだった。けれど、大粒の涙ひとつ流すたびに、ひとつ、ふたつと軽くなる。あのひととの暮らしが溢れては弾けていった。これでよかったんだ。片倉課長の指先がそっと頬に触れ、涙を拭う。片倉課長はわたしなんかよりずっとずっと大人だ。


「なあ、なまえ、どうして俺がお前を誘ったと思う?」
「…は、」
「ま、フラれた弱みに付け込むなんざ卑怯なこたァしたかねえがよ」
「……片倉課長、まさか、冗談でしょう?」
「俺が冗談なんか言うと思うか?」


大粒の涙がひとつ、弾けた。片倉課長が色のついた冗談を言うなんて、世界がひっくり返ったってないことなのはよく知っている。まさか、そんな。


「ま、泣き虫なところを何とかしたら、俺はお前を嫁に欲しいんだがな」


びゅうとふたりの間を駆け抜けていく風に攫われていった枯れた花の色を追い掛けることもせず、芽吹く春に目をそらすこともできない。口をぽかんと開けたまま。片倉課長が頬杖をつきながら一杯お酒を飲み干す。向けられるニヒルな笑みに耐えられるだけの心臓なんてわたしにはなかった。春が驚くほど近く、隣まで来ていたなんて。どうかどうか、色付きはじめたばかりの、わたしだけの春を愛せますように。

Ash.