あの時、もしも。色んな可能性が頭に浮かぶ。だけど俺が選ぶのはきっと、たった一つなんだろうなってその度に思うのだ。かなり強引だったけど、それでも。
つまり、俺は全然後悔していないってことだ。
彼女と初めてちゃんと話したのは、一年の夏だった。部活を最初に休んだ日からすでに三週間たっていて、その日も他の奴らと一緒に放課後の教室でずるずるとだべっていた。隣のクラスで話していたのだけれど、ふいに宿題を教室に忘れたことに気付いて、とりに戻ったのだ。扉の前に立つとかすかに聞こえる楽器の音に、軽音楽部が練習しているのだと勘違いして、俺は小声で失礼します、と言いながら静かに扉を開けた。
彼女は歌いながら振り返って、俺を見とめた瞬間、楽器を落としそうになっていた。同時に俺は彼女の頬をつたう涙を見てしまい、持っていた携帯を落とした。慌てて拾って、次の瞬間にはもう彼女の頬は濡れていなかった。あまりの荒業に俺は苦笑して、そのまま彼女の使っている机の前の席に座り込んだのだった。
「そうやってこすると、痛くなっちゃうよ?」
手をとると、案の定手の甲が濡れていて、俺がそっとそれを拭うと彼女はさっと引っ込めた。男子とよく話すタイプでもなかったから、それも当然かな、と思いながら彼女を見つめる。うるんだ目が宙をさまよった後にまっすぐ俺を見つめ返してきた。
「俺さ、部活行ってないんだ、今」
唐突に話し始めた俺を見て一瞬首をかしげた彼女は、ちょっと間をおいてから、机から飛び降り、楽器を片付けはじめた。
「新しい監督が怖くてさ、もう逃げはじめて三週間」
「今日もやることないのに、だらだらしてて、罪悪感とかさ、いろいろあるんだけど、でも戻るのも怖くてさ、行けないんだ」
やっとそこで彼女は荷物をまとめ終わって、さっきまで座ってた机の椅子に座りなおした。背筋がしゃんと伸びていて、神妙な顔をしているのがどことなく面白い。
「私はね、部活やめてきた」
俺の意図が伝わったのか、今度は彼女が話し始めてくれる。
「三組のサイトウって知ってるかな? アイツがボーカルでさ、バンド組んでたの」
軽音部内にいくつかのバンドが存在するらしいが、彼女はその中の一つ、男女混合のバンドにいた。ベース担当で、ギター担当の女子と仲が良い。
「サイトウとね、付き合ってたの。それで私も三週間前かな、フラれてさ。居心地悪くてね、ずっとバンド練行ってなかった。次のベースを探されてるのもわかってたからさ、今日やめてきたの」
「だから、もうバンドマンと恋なんてしないんだ」
「さっきの曲……知ってたんだ」
「やっと笑った」
彼女はぎゅっと目を閉じると、今度は丁寧に人差し指で瞼を何度かなぞる。それからゆっくり目を開けて、思いっきり口を開けて、声を出して笑った。
「はっはっはっはっ」
「……はっはっはっはっ」
なんだかおかしくて、俺も一緒に笑ってみる。そのままの流れで、一緒に帰ろうか、って言ったら彼女もうなずくから、俺たちはその後すぐ下駄箱で合流することにして、一度解散した。
下駄箱に靴をしまう、その動作だけで"女の子"を感じるのってどういうことなんだろう。彼女がちょっと背伸びしてやっと中段の靴箱に届くのに、俺は軽々上段に靴を入れられる。クラスの中でも小さい方の彼女とバレーボール部の俺が並んだらそれくらい差があるのは当たり前なんだけど、その時の俺にはやたら衝撃的だったのを覚えている。彼女は当然だけど何も気にせずに靴を履きかえて、もたもたしている俺を不思議そうに見つめながら待っていた。
「どこいく?」
部活をサボっているわけだから、どことなく人目を気にしながら校門に向かい、隣を歩く彼女に尋ねる。
「ゲーセン、行きたい」
一緒に帰ろう、ってだけの約束なのに、その時の俺たちには直接帰るなんて選択肢はなかった。いいね、って言って、あとは無言で坂を下りて行った。部活帰りによく行っていたお店の前を通るときは胸がひゅんってつかまれるような気がしたけれど、笑ってごまかす。大した話もしなかったし、ずっとしゃべりっぱなしというわけじゃなかった。でも心地よかった。
ゲーセンは学校の最寄駅にはなくて、電車で何駅かいった繁華街にある。俺らのように放課後に遊びに来た中高生であふれていて、一気に入ってきた騒音に面食らってしまう。彼女はその中から迷わずに歩いて行って、あるゲームの目の前に立った。
楽器を手に取ると、ベースモードに切り替え、口ずさみながら、落ちてくるバーに合わせて演奏する。ところどころで振り上げてスコアをアップさせるのもかっこいい。
「こういうのって本物をやってる人がやって楽しいもんなの?」
「うーん、お手軽にテンションあげられるよ?」
「ああ、楽器大変そうだもんね、マンションだったら音とか気にしないとだし」
「単純に楽しいし、やってみれば?」
「いや、俺ギターできないし」
結局、ドラムの方がおすすめだと言うので、薦められるままにやってみたら案外楽しかった。その後、太鼓の達人をやって、やっぱり彼女のうまさに拍手して、クレーンゲームで彼女のへたさに驚く。そうこうして店を出ると、もううっすらと暗くなっていた。夏とはいえ、夜道は危険だ。まだ音ゲーに気持ちを残している彼女の背中を押して、駅に向かって歩き出す。
「ねえ、縁下君」
名前知ってたんだ、振り返ってそうちゃかそうと思った瞬間、学ランの裾を掴まれる感覚に思わず立ち止まった。
「まだ帰りたくない」
はっとした瞬間に彼女は俺の腕をとって、すたすたと歩きはじめていて、俺たちは数分後、すぐ近くのカラオケにいた。
「元彼と初めてデートしたときね、ここに来たの」
これがね、彼が歌ってくれた曲、と彼女が微笑むと流れてきたのは、好きな人とずっと一緒にいたいという一途な気持ちを切々と伝える曲で。
「それから、付き合ってはじめてのライブでやった曲」
全部英語詞のバラードを歌う彼女はどこか吹っ切れたような優しい笑顔だった。
「もう、やめなよ」
俺はそう言うと、選曲する機械を奪って次の曲をいれる。
「それで、今度からはこの曲を思い出して」
俺が駄目だったから彼女は離れていったんだ、とパンクの力強いサウンドに乗せて歌う曲は俺から彼女への精一杯のメッセージだった。ひどいなあって笑いながら彼女はアイスティーを飲んでいて、俺は音程を外したらかっこ悪いから必死に画面を見ていた。
俺が歌い終えたところぎりぎりで彼女は次の曲を入れていた。彼女のマイクを持つ手を押さえつけると、彼女は目を見開いていて。ちょっとびびったけど、これは言わないと、って思ったから、気にせずに、まっすぐ伝える。一緒に、やり直してみようって。
「明日、バレー部に、来て」
バックには爽やかなメロコアサウンドが流れていた。
「なになに? どうしたの?」
みょうじはタオルを差し出しながら、首を傾げる。
「みょうじがマネージャーになったときのことを思い出してた」
そう言ったら、みょうじはふわりと笑って、体育館のステージにひょいと飛び乗り、俺の隣に腰かけた。
「ふーん、縁下君、余裕ですね」
笑う彼女に、ごめんごめん、と軽く謝ってからタオルで首筋の汗をぬぐう。練習もあと30分といったところで、そろそろ締めに入っていくころだ。最後のひと踏ん張りが一番つらいことは経験から知っているから、スポーツドリンクを口にふくんで、気合を入れ直した。
あの時、俺が教室に宿題を忘れていなかったら、みょうじはきっとここにいない。そんな可能性は、今となってはちっとも思い描けないくらい、みょうじが隣にいることに俺はすっかり慣れてしまっているのだけれど。
でも、たまに不安になるのだ。みょうじは本当は後悔しているんじゃないかって。元彼にやり直そうって言われたら、この場所を捨てて舞い戻ってしまうんじゃないかって。
そして、そう思う度に俺はあの日のみょうじの涙と笑顔とを思い出す。
Ash.