あの夏の終わりからなまえと流川の距離はぐっと近くなった。

きっかけはほんの些細なこと。夏休みが終わり、新学期が始まったばかりの頃だった。―――なまえは相変わらず退屈でしかない数学の授業をこっそり抜け出し、屋上へと続く階段をリズム良く登っていた。授業をサボる時は専ら塔屋の上に設置されている給水タンクの裏。そこがなまえのお気に入りの場所だった。錆びついた扉を開けて澄み渡る青空が広がる屋上へ躍り出ると、すぐ横に備え付けられている梯子に手足を掛けて、器用に塔屋を登っていく。「よいしょ」と梯子を登りきったなまえの目の前には予想だにしなかった光景が広がっていて、ぎょっと肩を揺らした。そこには大きな体を猫のように丸めた体勢でしっかりと熟睡している先客の姿。なまえは梯子に手足を掛けたままの状態で、その先客をしばらく見つめていた。―――彼の名は流川楓。湘北高校バスケ部のエースであり、なまえの中学からの仲間である桜木花道が一方的に敵視している男だった。

「……ん」

閉じていた瞼が薄っすらと開かれ、瞼の奥から現れた黒い瞳と視線がかち合ったような気がした。やべ、と思った時にはすでに遅し。流川は何度か瞬きを繰り返すと眠気まなこのまま、のっそりと上体を起こした。お前誰だと言わんばかりの目つきである。

「…あっ、どーも」
「…ドーモ」
「先客がいるとは思わなくて、ごめん邪魔した。別んとこ行くわ」

早口でまくし立てた後、来た道を引き返そうとするなまえを流川が「おい」と呼び止める。その声に反射的に動きを止めると、何を考えているかよく分からない瞳がじっとなまえを見ていた。

「…オメーは、確かどあほうの」
「あ、うん、そうそう」
「……名前」
「…え?あー、みょうじなまえ……だけど」
「…みょうじ、なまえ」

基本的に人の名前と顔を覚えようとしないことで有名な流川が、みょうじなまえという存在をきちんと認識していたことに驚いた。それだけではない、咀嚼するように何度もなまえの名前を呟いている。そのあまりにも異様な出来事になまえはただただ絶句した。

「ここ」
「…は?」

唐突に言葉を発した流川が指をさしたのは自らの左隣。まさか、そこに来いと?呆気に取られたなまえは再び絶句する。天上天下唯我独尊、何人たりとも睡眠の邪魔をする者は許されないと言われる流川の隣に?自分が?座る?

「あっ、いや、遠慮しとく。アンタの睡眠邪魔したらロクなこと無さそうだし」
「………」

目を細めた流川がここに座れと言わんばかりの無言の圧力をかけてきた。それに対してなまえも負けじと睨み返す。そうして睨み合うことしばらく―――。

「……はあ」

観念したようになまえが深く息を吐く。肩を竦めながら「分かったよ」と呟いて、流川の隣に胡座をかいて座り込んだ。しかし隣に座ったからといって何をするわけでもなく、何を話すわけでもない。何故なら、なまえと流川は今日初めて言葉を交わしたのだから。―――静寂が訪れる。だが、流川との間に流れる沈黙は思っていたよりも気まずいものではなかった。いや、むしろ不思議と心地が良い。その心地良さの理由を頭の隅で考えながら、まだ盛夏の余韻を残した空をぼんやり眺めていると、突如右肩にずっしりとした重みがのしかかってきた。

「おおっ!?」

驚いたなまえは色気とは程遠い声を上げる。ゆっくりと首を回して右肩を確認すると、流川の艶やかな黒髪と綺麗なつむじが目に入った。

「え、は?」

耳を澄ませると、すー、すー、と穏やかな寝息が聞こえてくる。なまえは自由の効く左手で流川の肩口をポンポンと叩くが、微塵も起きる気配がしない。

「ちょっ、流川…!起きろ…!」
「―――何人たりともオレの……」
「あー、はいはい!すいません!」

流川の寝言に、肩を揺さぶっていた左手をパッと離す。睡眠を邪魔された流川は何をしでかすか分からない。なまえは諦めて溜息をつくと、流川を起こさないように細心の注意を払いながら、給水タンクに背中を預けた。

「ったく、勝手に人の肩使いやがって…」

規則正しい寝息を立てながら眠る流川に悪態をつきながらもその実、なまえの口許には自身も知らない微かな笑みが浮かんでいた。



それから2ヶ月。季節はすっかり秋になった。あの日以来、2人はよく塔屋の上で会うようになった。特別なことは何もなかったが、時折ちょっぴり早いお昼ご飯を食べたり、一緒になって昼寝をしたり。2人だけの秘密の時間を共有していた。バスケ部のエース、そして湘北高校のアイドルといっても過言ではない流川楓と、かたや湘北高校一の問題児軍団といっても過言ではない『桜木軍団』の紅一点・みょうじなまえ。この相反する2人が実は密かに親交を深めているなど、一体誰が思うだろうか。
今日もなまえと流川は塔屋の上にいた。なまえは大楠から借りた漫画に読み耽り、流川はいつものようになまえの肩に頭を預け、ぐっすりと眠り込んでいる。ちらりと流川に視線をやったなまえは相変わらず女の子みたいだなあ、と思った。長い睫毛に細くて柔らかい髪、日焼けを知らない陶器のように白い肌。そのどれか1つでいいからこっちに寄越せ、なんて恨めしく思いながら少し長めの前髪に指を通すと、指先にくるくると巻きつけて弄ぶ。何度か繰り返し遊んでいると、流川の頭が小さく揺れた。顔を覗き込むと、すうっと薄く開いた目が向けられた。

「何、しやがる……」

寝起きの掠れた声になまえは口端に笑みを乗せる。

「いや?相変わらず女の子みたいに綺麗な顔立ちだなあと思って」

くつくつと喉を鳴らすと、流川がムッと目を細めて上体を起こす。こんな軽口も言えるような仲になったものだ。

「オレは女じゃねー」
「はいはい」

流川はそれだけを口にすると、もう一度こてんと頭をなまえの肩に預ける。柔らかな髪が首筋に当たって少し擽ったかった。
この屋上で一対一で面と向かい合うまで、流川に対して『無愛想で無口で取っつきにくい奴』というあまり良くない印象を持っていたなまえだったが、こうして一緒に授業をサボる仲となってからその印象は少しずつ薄らいでいた。言葉数こそ本当に少ないが、意外と流川は感情を表に出す。流川が一体何を考えているのか、機嫌が良いのか悪いのか、なまえは些細な表情の変化から感情を汲み取れるようになっていた。―――ちなみに今の流川は少しだけ機嫌がよろしくないようだ。

遠くで終業を告げるチャイムが鳴り響いた。次は待ちに待った昼休み。なまえは桜木達と食堂でお昼を食べる約束をしていた。そろそろ向かわないと食堂が混み合って来る。なまえはぐっすりと眠りこけている流川を叩き起こす。

「おーい、流川起きろー。わたし、食堂行かなきゃいけないんだけどー」
「ん……」

ゆらりと上体が動き、のしかかっていた重みが遠ざかる。しぱしぱと瞬きを繰り返す流川の眼前になまえはひらひらと手を振る。

「わたし、行くよ?花道達が待ってっから」
「―――」

流川の返事を待たずに「じゃあね」と腰を浮かした瞬間。襟元を思い切り引っ張られ、なまえは再び地面に座り込む形になった。

「いててて……ちょっ、何すんだよ」

ぐっと締まった首をさすりながら流川を睨みつけると、先程まで眠気まなこだったはずの流川がじっとなまえを見つめていた。その黒曜石を思わせる流川の瞳が、バスケをしている時のような熱を孕んでいてなまえは思わずたじろいだ。流川の感情が一瞬、分からなくなる。

「……な、何?」
「……」
「……」
「―――好きだ」
「は?」
「オメーが、好きだ」

その言葉を最後に、流川はなまえからふいっと顔を逸らす。一方のなまえは突然の事態に思考回路がフリーズしていた。全くもって状況が理解できない。なまえは流川の呟いた言葉を思い出し、咀嚼し、飲み込む。いやいやまさか、冗談な―――。そんな面持ちで流川の横顔を見つめるが、緊張気味に引き結ばれた口許、ほんのり赤らんでいるように見える耳、そして何より今まで見たことのない表情を浮かべている流川に、なまえは先程の言葉が冗談ではないことを悟った。

Ash.