学年が上がっていくことを鶴本は処刑台に向けてのカウントダウンのように口にしていたけれど、私にはそう悪いことばかりだったとはどうしても思えないのだ。まず、上級生になるほど与えられる作業スペースは広くなる。我々美術科の人間にとって、自由に使える空間はいくらあっても嬉しいものだと思うが、残念ながら最終学年にもなると、そこを活かしきるだけの時間も熱意も不足してしまうものらしい。卒業製作に勢を出している者からは、そんなことはないと反論されるかもしれないが、私に限った話をすれば、はっきりと飽きてしまっていた。スランプだと取り繕うことすら面倒な程に。最近ではそもそも私は絵を描くことが根本的にあまり好きではないのかもしれないとすら思うようになった。子供の頃にいくつか学校内でしか通用しないような賞状を貰ったからって、それが何だって言うんだ。
「今日、日曜日だよ」
「…そっちこそ」
顔立ち自体はそう悪くないのに、いかにも厭世家然とした雰囲気がそれを台無しにしている。申し訳程度に区切られた、私のとなりの作業机に無造作に鞄が置かれた。使っていないことを端的に示すように綺麗に片付いたこの木製の台が、鶴本に与えれた場所。私が彼のことを考えていたから、彼が此処に現れたのではない。鶴本の顔は無に近くなるほど憂鬱そうだ。偶然一緒になったことを喜べるような状況ではない。単位の危うい彼は、最後の望みを賭けて休日登校しているのだ。
「卒業できそう?」
「安泰だったら此処にいねーよ」
そう切り返す鶴本の様子があまりにも切羽詰まっているので、つい笑ってしまう。斯く言う私も似たり寄ったりの立場だが。
「就職は?」
「………」
右下を向いて黙り込んでしまった。なんて分かりやすいリアクション。
「就職と結婚は縁だからさ、焦らない焦らない」
フォローを入れたつもりだったのだが、鶴本はジロリと血走った目でこちらを睨んできた。
「もうそんな悠長なこと言ってられねぇんだよ」
入学したばかりの頃は、この飄々とした男が卒業間際にこんなに焦ることになるとは、想像もしていなかった。必要以上にリアリズムを掲げる彼は誰よりも大人びていたし、その作風も相俟って何事も卒なくこなしそうに見えた。現状を見るにつけても、それらは私の勝手な幻想だった訳だが。
「いいよな、就職活動しなくていい奴は」
父が起業をしていて、そこの事務員の席が確保されていることを、何かの折に鶴本にだけ話してあった。覚えていたのかと、目を見張る私の様子をどう勘違いしたのか、鶴本が冗談めかして淡々とつけ足す。
「社長令嬢いいじゃん、威張り散らせるだろうし」
「そんな大それたもんじゃないけどね…」
社長令嬢なんて華々しい響きのあまりの相応しくなさに、つい苦笑してしまう。実家に戻って、あの寂れた町工場に毎日顔を出す。あと数ヶ月で始まるその暮らしにはあまりにも現実感が乏しい。脳が具体的に想像することを拒否しているのだ。前提として、美術科に進学する条件がそれだった。大学生活が終われば、大人しく家に帰って家業を手伝うこと。勿論、留年なんて有り得ない。条件付きのモラトリアム。夢を追って失敗しても帰る場所があるだけ、自分は幸せなんじゃないかと思ったこともあった。夢なんか無いのに。おまけに、父の事業が軌道に乗っていないことを私は知っている。残念ながら今更学んだ分野で生計を立てられるほど、私には才能も熱意もない。
「実家で働くとか負け組っぽくない?」
特に、反骨精神を要求される分野の学舎にいる身としては。
「働ける場所があるだけ勝ち組じゃないか?」
そもそも何と戦っているのだろう、ただの大学生でしかない我々は。面接の予定でも思い出したのか、鶴本の顔色がどんどん悪くなる。
「そういえば鶴本、JKと付き合ってるんだって?」
深刻になる前に、良かれと思って話題を転向したのだが、あまり上手くいかなかったようだ。
「なんだそれ、初耳」
根も葉もない噂だったらしい。私としても同級生と後輩が愚痴っぽく話していたのを小耳に挟んだだけだから、これ以上の情報開示は行えない。
「あんまり女の子、泣かせちゃ駄目だよ」
鶴本のことをムッツリスケベと罵りながら、涙ぐんでいた純な女の子を思い出しながら、しみじみと忠告しておく。鶴本は賢しい男だから、雀堂ちゃんの好意に気付いていない訳がない。噂になっている女子高生の件だって、まるで心当たりがないという素振りを見せてはいるが、火のないところに煙は立たない筈だ。存外、罪作りなタイプなのかもしれない。
「泣かせてねーよ」
「…男の子もだよ?」
「俺はアイツの為を思って…!」
ダラダラと喋り続ける、私たちの手元に絵筆はない。休日を返上してまで、一体何をしに来ているのか。誰にも問われたくないし、なんだったら私達自身がその答えを求めていた。
「嫌な世の中だねぇ、鶴本」
「みなまで言うな」
私達の進路に関わらず、来年度にはこの席には別の学生が座っている。私と鶴本は別の場所にいて、偶然作業場がとなり合っただけのお互いのことなど、考えてもいないに違いない。今よりもっと光の当たらないところで、それでも多分、生きている。それだけで十分だと思える程度に、達観できていればよかった。そしたら、休みの度に来るかどうかもわからない相手を待ち伏せなんかしないのに。

Ash.