幼馴染

 夢有整骨・整体医院は近隣校のスポーツマン皆が口を揃えて絶賛するほどの信頼できる医院だ。元アスリートだというサーフィン好きの親父と湘北高校に通う娘、ふたりで営んでいるという。
 さらに学生に良心的な価格で施術をし、部活動終わりでも通えるように夜は20時まで受付可能。まさに学生のための医院だ。





 近隣の夕食の香りがする。
 ユメコは受付カウンターの下で正面口から見えないように週刊バスケをパラパラとめくっていた。学校が終わって16時から受付に座りっぱなしのためか少しだけ睡魔に襲われる。顔を上げ、時計を見ると19時を向かえていた。
 ふと、とあるページで手が止まる。その瞬間、入店を知らせるチャイム音が響いた。
 顔を上げると丁度見開きのページで掲載されている人物と目の前にやってきた人物の姿が重なる。

「紳ちゃん、遅くまでお疲れ様」

「おお、ユメコもお疲れ」

 牧紳一に向けられたユメコの微笑みは少し眠たげだった。紳一は自分自身も身体に応える練習をこなしてきた為、ここへ来るまでの電車でまどろんだが、ユメコの顔を見ると不思議と心が穏やかになり、気持ちがさっぱりするのであった。

「お父さん、もう準備して待ってるから」

 どうぞ、とユメコの右手が向く方に施術室に繋がる扉がある。紳一は「ああ、ありがとう」と一言礼を述べ、施術室へ向かおうとした。
 ふと、視界の片隅にカウンター内側で広げられている雑誌の一面が目に入った。

「その雑誌…」

 それは以前、自分がインタビューを受けた内容の記事だった。でかでかと掲載されたシュートを決めた瞬間の写真。こんな大きく載せると聞いたか、と紳一は苦笑した。

「買ったのか」

 紳一は恥ずかしそうに頬をかきながら、ユメコに目配せた。ユメコは頬杖をついて上目遣いに紳一を見つめる。

「買うに決まってるじゃん」

 ニコッと満面の笑みを浮かべる。

「しかも見て。2冊買ったの!一つは鑑賞用、もう一つは切り取り用だよ」

 ユメコはこうして牧が雑誌に掲載されるとそのページをカッティングし、ノートに貼り付けるなどして、バスケノートを自作している。彼女の唯一と言っていい趣味。それがバスケ観戦であった。

 もちろん、牧以外の注目選手にも目を見張っているのだが…

「お前、相当俺のこと好きだな」

 牧は以前彼女から見せて貰ったノート、その中身の半分以上が自分の記事ばかりであったことが記憶にあり、こうして揶揄うようになった。
 こういう時、ユメコは困ったように笑みを浮かべながら「自惚れ」と返すのが常套句だった。それに「はは」と余裕ある微笑を浮かべる紳一もいつものこと。ユメコは毎度、本当に牧紳一は高校生なのだろうか、と彼の年齢を疑ってしまう。
 それでも、時に見せる少年のような好奇心に満ちた瞳の輝きに安堵する。神奈川ナンバーワンと謳われる男もユメコからすると、ただ純粋にバスケが好きな高校生なのだ。

「おう、紳一。来てたのか」
「秀さん、こんばんは」

 受付から施術室までユメコと紳一の話し声が聞こえてきたのだろう。夢有整骨・整体医院の院長かつユメコの父、秀樹が施術室から顔を出した。
 秀樹と紳一、二人が向かい合うと共に背丈が同じぐらいの為か、迫力が並ならぬものとなり、部屋が狭く感じる。
 チェアに腰かけるユメコは一層と彼らを上目遣いに見た。

「今日の予約、紳一が最後だから」

 その一言でユメコは父の言いたいことが全てわかる。軽く締め作業を行なって上がっていいぞ、の意味だ。このまま自宅に戻ってしまうと、いくつか家事仕事が残っているため、また受付に戻れるか、わからない。
 紳一を見送る事は出来ないかもしれないと思ったユメコは「じゃぁ、またね、紳ちゃん」と先に見送りの挨拶を送った。すると紳一も「おう、また」と軽く手を挙げ、言葉を返す。

 二人が施術室へ入っていくと、ユメコはぼんやりと先ほど目にした二人の姿を思い浮かべた。
 背が高く、筋肉質な肉体。実年齢より上に見えてしまう逞しい顔立ち。けれど、その瞳の奥に優しく包み込んでくれるような温もりがある。

(背丈、肌の色、雰囲気…?)

 ユメコはひとりでクスッと笑った。以前、2人がサーフィンをしに海に行った時、その後ろ姿が、まるで親子のようによく似た背中をしていたのを思い出した。

「全部そっくり」

 そんな事をふわふわ考えながら作業をしていると、軽い締め作業を頼まれたにも関わらず、随分と時間がかかってしまう。さらに、かすかに聞こえてくる施術室で交わされる二人の会話が心地良いBGMとなり、作業は一向に進まない。

『今年は湘北が凄い』

 その一言にユメコの口元がニヤける。

(きっと彩ちゃんが聞いたら、当然って言いそう)

 入学してから一番に仲良くなったバスケ部マネージャーの彩子。さっぱりとした性格が一緒にいて心地良い。さらにバスケ好きという共通点が2人の絆を一層と深めた。

『陵南の仙道も昨年より格段に成長した』

 その一言にユメコは体がぴたりと止まった。

 仙道。

 その響きだけで、ユメコの心臓の鼓動が増す。途端に脳裏に浮かぶ、何度も瞳に焼き付けたその姿――ツンツン頭。憂いを帯びた眉。目尻の下がった瞳。気怠そうな声。

「仙道くん、最近来ないな…」

 最後に来たのは確か1か月ぐらい前か、と過去の予約表に目を落とした。





  ユメコが初めて仙道と顔を合わせたのは高校一年生の時だった。土曜日の午後診療が13時までの為、正面口を閉めようとしたところ「まだ、受けつけてますか」と、眉を下げ、申し訳なさそうに声を掛けてきたのが仙道彰だった。
 ユメコはこの時、困り眉の仙道が雨に濡れた仔犬の様に見え、父の事(サーフィンをする為に午後診療が13時まで)など、どうでも良くなり「大丈夫です」と応えてしまった。

「良かった」

 ほろりと笑顔になった仙道にユメコは心が騒がしくなった。

 無論、父からは一言突っ込まれたものの、陵南高校期待のルーキー仙道彰だと知ると、その肉体を是非とも触診させてくれと言わんばかりに俄然やる気を起こした。





「いやぁ、ありがとうございました。おかげさまで身体が軽いです」

 施術を終え、受付に戻ってきた仙道は腕を伸ばして、快調を実感する。そんな仙道を横目にユメコは「ちなみに、どうしてウチに…?」と聞いた。 
 大抵、先輩や友人の紹介でというのが多いのだが、そう返事がくると分かっていながらユメコは、ただ仙道と言葉を交わしたくて口にした様なものだった。
 すると仙道は「あ〜」と瞳を大きく見開いたあと、
「先輩たちが口を揃えてお勧めだって」と口にする。
 そしてすぐに「あと…」とひそめた声で呟いた。

 ユメコは上手く聞き取れなかった為、首を傾げた。すると仙道がユメコに手招きする。ユメコは不思議に思いながらも、受付から出て仙道の前に立つ。身長190cmの仙道を前にユメコは首を大きく持ち上げなければならなかった。それは紳一を見上げるのとはまた違った角度。

(紳ちゃんより大きい…?)
 
 そんなことをぼんやりと考えていると、目の前の男は腰を曲げ、ぐっとユメコに顔を寄せた。突然の事に、慌てる余裕もなく、耳元にかかる息に身体は硬直する。

「受付の子が可愛いからって聞いて」
「えっ…」

 至近距離で見つめた顔は人を酔わせる顔だ。無論、その薄い唇から零れ落ちる言葉も肌にすっと溶けていく雫の様で。

「じょーだん」と無邪気に笑うその顔にユメコはハッとした。じわじわと頬が熱くなってゆく。そんなユメコをよそに仙道は「ありがとうございました〜」と正面口から出ていく。

「また、来ます」
 
 最後に顔だけをユメコに向け、去っていく。
 
「どうした、ユメコ」

 ユメコの身体の硬直は父の声でようやく解けた。声を取り戻したマーメイドの様に荒く息づき、ようやく落ち着いた頃に、
「陵南高校、仙道彰…!絶対チャラい…!」
 一目惚れしたものの、すぐに警告音を鳴らした。