ドキドキ

 月一回の彩子と二人きりでの飲み会。その帰り道、最寄り駅に着いた途端、雨が降っていた。予報でも雨が降るとは言ってなかった為、傘はない。
 寿、迎えに来てくれるかな…?
 こういう時、同居人がいると助かる。ただ、家を出る前、彼はベッドでスヤスヤと眠っていた。オフシーズンの今、彼は体力温存中なのだ。けれど、この雨の中、歩いて帰るのも気が引ける。試しにメッセージを送ってみると、意外にもすぐに「迎えに行く」と返事が来た。
 夜、22時半――お腹でも空いて起きたのだろうか…?

 駅のロータリーがよく見えるカフェで彼の迎えを待つことにした。ホットコーヒーを手にしながら、ザーザー、とガラスを打ち付ける雨を眺めた。ふと、居酒屋で彩子と最もヒートアップした話題が彷彿する。
『最近、ドキドキしないんだよね』
 卓に頬杖をついて、ため息交じりに言う彩子は早急に解決したい深刻な悩みというよりかはもうすでに諦めた様な調子だった。たしかに言われてみれば最近、私も彼に対してドキドキする気持ちが落ち着いた気がする。昔は隣にいるだけでもドキドキ。スリーを決める姿にドキドキ。厚い胸とたくましい腕に抱かれるだけでドキドキ、とせわしなかったのに今では…

『当たり前になっちゃったなぁ』

 コーヒーを一口啜ると、ほんのりとした苦みがじんわりと胸に染みる。彼と過ごす時間が安堵に変わり始めたタイミングであるのだと解釈すべきか。けれど、まだ心の何処かで彼にドキドキしたいという気持ちが残っている。
 ふと、車のヘッドライトが眼に射した。見覚えのある車。スマホが揺れる。





「お迎えありがとう」
「おう、丁度起きたところだったから」

 確かに彼は寝起きの様で、少し髪に寝ぐせがついている。そして、急いで家を出たのだろう、寝間着のTシャツにハーフパンツのままだった。けれど、現役アスリートの彼はそれらをお洒落に着こなしてしまう。練習後の風貌があって、かっこよく見える。

 家に向かって車が走る。降雨に街灯の明かりが射して少し眩しく感じる。ふと、彼に今日一番に盛り上がった話をしてみたくなった。

「彩子にさ、最近彼にドキドキしないって言われたの」

 車窓から流れていく景色を眺めながら口にした。すると彼は「へぇ」と言葉を溢した。

「それは夢子も共感なの」
「ん〜、まぁ私も落ち着いてきたかな…?」
「へぇ」

 また口にした『へぇ』には先ほどよりも興味深いと言いたげな含みを感じられるものだった。
 信号が赤になり、車が停まった。ふう、と気が抜けたように瞳を閉じた。すると途端に、腿の上に置いていた手に温もりを感じた。思考が追いつかないまま、私の手は彼の手に導かれて、彼の口元へ。
 ちゅっ、と短いリップ音が車内に響く。彼の熱い眼差しが私を上目遣いに見た。

「まだ、ドキドキするだろ?」
「あ…」

 彼は私の手をぎゅっと握り絞めたまま、自分の膝元に落ち着かせた。

「する…まだ、全然する…」

 私はドキドキと跳ねる心臓に少しだけ呼吸の仕方を忘れた。彼は何度か私の手をぎゅっぎゅっと握りしめて「あはは、良かった」とはにかむ。
 その横顔があどけなくて、どうしようもなく愛おしく感じた。

 自宅マンションの駐車場に着いた時、これまで耳をうっていた雨音が止んで、急に二人きりの世界にやってきた様な感覚におそわれた。先ほどまで繋いでいた彼の手が恋しい。手の甲に感じた彼の唇に触れたい。
 そう思った私は「あの…その…」と車から降りようとする彼の腕を掴んだ。

「ん?」

 彼は口ごもる私を黙って見つめたまま。私が何をしてほしいか、わかっているのに言わせようとする。その証拠に口元が少しだけ笑っていた。

「どうした?言わなきゃわかんねぇーよ」

 声色も少し笑い交じりだ。悔しさと恥ずかしさで彼の腕をぎゅっと掴んで、引いた。

「キスしたい…」
「ん」

 口にして直ぐ――彼の唇が私の唇に触れた。ちゅっと幾度か柔らかな感触を確かめて、次第に濡れた舌が絡み合う。それと同時に掴んでいた腕も、大きな手に代わって、お互いの指を絡め合わせた。
 最後にもう一度、触れるだけのキスをした。彼の手が髪をそっと撫でる。

「続きは家でな」

 そう言って、はにかむ彼の瞳が私の胸をぎゅっと摘まんだ。この後のことを想像した瞬間、さらに心臓が痛くなる。
 私はまだ彼にドキドキしている。

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