彼らが解放されるまでは同じ痛みを味わおう、と己の夢の為、この国を、人々を、疎かにした自分への戒めでもあった。
愛する家族、慕ってくれる家臣たちが待つうちへの帰路、雪を抱えた祠に寄り道した。積雪の重みで潰れてしまいそうなそれを手でふぁふぁ、と払いのけると祠の中の狐像が微笑している様に見えた。貰ったばかりの油揚げを供えれば、さらにその狐は怪しく笑ったように見える。
昔、まだ国のことも分からず好き勝手、野放図に生きていた時に女狐に化かされた事がある。
幼き頃、聞かされた古い話で女狐は男をその妖艶な容姿で言葉巧みに精神を操り、肉体を弄び、最後には精気を吸い取ってしまう、と子供ながらに得体の知れない存在に恐怖した事を覚えている。
その古い話通り——その女は人間のカタチをしているのにどこか神秘的で手で触れることさえ出来なかった。怖気付く自分を女狐はその背にある神々しい四つの尻尾を揺らしながら、喉を鳴らした。
『ぬし、最近巷で荒くれ回っておる、おでんじゃなァ。ついにわっちの祠に供えられたモノにも手を出しおって。つくづく光月の男は親子揃ってあほうよのォ』
色白い細い肩を上下し、豊満な胸を覗かせ、笑うその姿におでんはごくりと息を呑んだ。
『…まぁよい。わっちが見るにぬしは、国を統治する器を持っておる。なに少しばかり古い…八百年か…愉快なあやつに似通ってるとこがあるのじゃ』
そう口する女は遠い記憶を辿るように空を仰いだ。光が差した瞳が微動する。
『見逃してやる。ただし、わっちとの契りを交わすのじゃ。一つに、国を統べた時、祠に同じものを供えろ。二つに、国の外を見るのじゃ。海の先に何が見える?ぬしの目が捉えるその世界はどんなものか、見ておくれ』
そう言って女狐は消えた。頬を撫で上げた風にぶるっと背筋が伸びた———。
その後、おでんは荒れくれものの集う地、九里を己の力で納め、国々を行脚した。その道中、今の家臣たちが自分を慕って着いて来るのを不思議に思いながらも国を統べる大名に就き、約束通り祠に供物をした。そして女狐の言葉通り海に出た。あの女狐は自分を改心させるための一度きりの幻かと思えば、まさか船の上で再会を果たすとは何かの縁だと思った。
おでんは祠に手を合わせた。すると、祠の奥の茂みから、ふさふさ、と雪を踏む軽い音が耳を突く。おでんはそこに凝視する。そして、わ、と言葉が溢れるのと共に目を大きくした。
おでんの前に現れたのは、ひとりの幼子だった。年はモモの助と同じくらいか。薄汚れた布地を肩にかけ、髪は乱れ、顔は外気の温度で赤みを帯びていた。しかし、幼子にしては少しばかり妖しい雰囲気を纏っていた。それはあの——女狐を彷彿とさせるものだった。おでんはその幼子に恐る恐る近づく。
「お前、母親はどうした」
と聞けば小さな頭を横に振る。その頭を支える身体が頼りなく、そのまま頭が飛んでいってしまいそうだった。
「…さむくないの…?」
首をことっと片方に倒す幼子に、おでんは自分の体に目を落とした。ふんどし一枚。普通の人間ならば耐えられやしない。
おでんは、がははは、と溌剌と笑った。
「寒くなどない‼︎」
ほら、と手を差し出す。幼子は恐る恐るおでんの大きな手に小さな手を重ねた。手の平から伝う温かな感触に幼子は、わぁ、と瞳を大きく見開いた。
「あたたかい」
途端に、ぐうう、とどこからか空腹音が響く。恥ずかしがるように幼子はお腹を抑えた。おでんは幼子のらしさ表れる表情の変化に口を開けて笑った。そして、幼子を腕に抱いた。
「俺と来るか」
幼子の丸く大きな瞳がおでんを見つめる。温かな体温に包まれた小さな体。おでんの腕の中で、小さな頭がこくりと頷いた。
「お、おでん様それは…‼︎‼︎」
玄関口から響き渡る錦えもんの声に、様々なところに点在していた家臣たちが、なんだなんだ、と駆けつけてくる。
「ただでさえ、明日の飯もカツカツなんすよ…!?」
傳ジローのため息混じりの呆れ声。幼子を腕に抱え、ふんどし一枚で佇む男を誰が将軍と認識するか。否、おでんの帰りを出迎えるため、集った者たちは皆、その男を慕っていた。
「おでん様おかえり〜!」
「小童?」
「ついに人攫いを…!?」
「早まらないでくれ!」
各々好き勝手に口にする家臣たちにおでんは「いいから聞けェ‼︎」と場を沈める。
「親は近くにいなかった‼︎身寄りのない子だ。置いていくわけにはいかないから連れて帰ってきたのだ!」
なぁなまえ、とおでんが腕に抱える幼子——なまえに笑いかけると、すでに打ち明けた様子でなまえも花を咲かせたように笑った。
そんなふんどし一丁の男と何とも愛らしく笑う幼子を目にし、みな口を閉ざしてしまった。
「ちちうえ〜‼︎」
「おー‼︎モモの助!」
おでんは駆け寄ってくるモモの助をもう片腕で抱き上げる。まだ父に甘えたい年であるモモの助はおでんの帰りを誰よりも心待ちにしていた。
「おかえりなさい!おでんさん…?」
「ただいま!トキ」
トキは静かに眠る日和を腕に抱え、おでんに近づく。恥ずかしそうに顔を俯かせる幼子に、
「こんにちは」
とその顔を覗く。そしてトキは懐かしい記憶が風のように通り抜ける感覚を得た。
「おでんさん…」
と大きな瞳に涙を潤ませるトキにおでんは心に思うことが通じ、深く頷いた。
「せっしゃは…モモのすけでごさる…」
おでんは腕の中でモモの助が照れながらなまえに名を名乗る姿に
「凄いなァ!モモの助!自ら名を名乗れるのは立派なことだァ!」
と瞳を輝かせる。傍で控えるトキも、ふふふ、と少しばかり溢れてしまった涙を拭い、誤魔化すように笑った。
「…わたしはなまえ」
あまり年の近いものと接することがなかったのであろう。恥ずかしそうになまえも名乗った。ちらちら、と視線を交わすその控えめな姿にモモの助は顔を赤らめる。
「この子は日和、仲良くしてあげてね」
トキはなまえに腕の中で、すやすや眠る日和を見せた。なまえは初めて目にする赤ん坊に瞳を大きくし、わぁ、と言葉を溢す。日和は薄らと瞼を持ち上げ、なまえに笑いかけた。
そんな子供たちの交流を目にした者たちは皆、心にこう思った。
『『この子達の笑顔を守りたい‼︎‼︎』』
おでんが九里に帰還して半年。
光月城に新たな仲間が加わった。のちに、おでんが手を差し伸べたなまえが未来の将軍、モモの助にどれほどの影響をもたらすか、この時はまだ誰も知らない——。