地べたを向く虚ろな目がキングを弱々しく見つめた。なまえが来てから一月ほど経過した。何度か脱走を試みる意地は評価に値する。しかし、毎度同じ手口を繰り返されると子供のその浅はかな考えが腹正しくなる。そこでキングはなまえを縄で縛り、この拷問部屋とも言っていいような無機質な空間になまえを閉じ込めた。しかし反骨精神なのか、三日間飲食を拒否している。
「もう少し利口な餓鬼だと思ったが」
キングの言葉になまえは微かに笑った。その顔が妙に艶かしく、子供らしくない表情に見えた。
「わたくしが死んだらあなたも危険なのでしょ?」
どうやら利口なのは確かなようだ。カイドウとキングの関係値を理解しているようで、伊達に光月家に身を置いていたわけではないのだと感心した。
「そうかもしれないな」
「だったらこれじゃ食べれない。外して」
キングは一瞬背筋を何かが通り抜けるような感覚に襲われた。思わず背後に目をやった。しかし何も目に見えはしない。一瞬目を離した隙だった———
キングは、またか、と吐息をついた。縄が虚しく地に捨てられていた。
なまえは屋根裏で息を潜めていた。片手にはおにぎりを持ち、それを頬張る。塩の効いた白米が身に沁みる。おでんや家臣たちと稽古の後に食した握り飯を思い出し、思わず泣きそうになるのをグッと堪えた。
今日まで飲食を拒んだのも弱った姿に油断した隙をつく為だった。
「さて、ここからどちらに進めば良いのか…」
ふと、ぐうう、と空腹を知らせる音が背後から響いた。気配に全く気づかなかったなまえは、咄嗟に振り返る。すると、そこには自分より頭一つ分は大きいものの歳は大して変わらないあどけなさを瞳に宿した子供が立っていた。
「だれ⁉︎」
なまえは身構える。小回りが効くカイドウ側の者だと厄介だ。殺気立つなまえに、その子供は慌てたように首を左右に振る。敵ではないと言いたげだ。しかし、その子供から出た言葉になまえは唖然とした。
「ぼ、僕は光月おでん‼︎」
「…は」
早急にこの場から離れようとした。
「わぁ‼︎行かないでくれ‼︎僕はヤマトだ‼︎」
君は⁉︎、と掴まれた腕に痛みが走る。歳は変わらないはずなのにあまりの体格差にヤマトも力加減が分かっていない様だった。なまえが、痛い、と顔を歪めるとヤマトは慌てたように手を離す。
「なまえよ…カイドウに連れて来られたの。あなたが名乗った光月おでんさまのもとにいた」
「光月おでんの⁉︎僕の憧れなんだ‼︎」
ヤマトは大きな瞳をきらきらと輝かせてなまえに迫る。こぼれ落ちてしまいそうな瞳になまえは見入った。そして、ヤマトは懐から書物を取り出す。
「これ‼︎僕の大切なものなんだ‼︎」
おでん漫遊記と記された書物になまえは目が飛び出そうになった。
「これって、おでんさまの日誌⁉︎」
そうだ、とヤマトは胸を張った。まるで自身が書き連ねたかのように。
「言葉がわからなくて、お侍さんたちに教えてもらったんだけど…気になる…?」
ヤマトはちらちらとなまえが手にするおにぎりに視線を送りながら言う。この日誌を見せる代わりにおにぎりをくれ、という交換条件の提案だった。しかし、次第に目の前の少女の顔が涙で歪んでいく。
「いまそれを読んだらわたくし…おでんさまのことを思い出して…ヒクッ…うう…」
なまえは大粒の涙を止めどなく流した。
「わぁぁ‼︎ごめん‼︎泣かないで‼︎」
今のなまえにはおでんが生きた証を覗くには少し荷が重かったのかもしれない。ヤマトはなまえが泣き止むまで小さな背中を優しく撫で続けた。
泣き止んだ頃、なまえはお詫びにと半分ほど食べてしまったおにぎりをヤマトに渡した。ヤマトは空腹に耐えかねていた為、貪るようにそのおにぎりを食した。
二人はすっかり打ち解けていた。ようやく心を通わせられる存在を見つけたのだ。
「なまえはおでんさまに出会う前はどうしていたの?」
「わたくしは狐さんたちに育てられていたの」
「きつね…?」
「そう」
となまえは、いとも簡単に頭部に二つ獣耳を立て、お尻の辺りから四つの尻尾を揺らした。
それに驚いたヤマトは後方に手をついた。ヤマトは自分も同じように獣の姿になれる事をなまえに伝える。そして自分がその様な力を手に入れたきっかけが空腹を満たす為に食した変わった実であると語る。同じ様なものを食べたのかと聞くとなまえは首を左右に振った。
「いいえ、生まれた時からなのかな?気づいたらどちらの姿にもなれていたし、風も操れていたの」
「すごい…君は強いんだね‼︎」
ヤマトは未だコントロールが効かない能力に疲弊していた。その為、なまえの頭部から消えたり現れたりする獣耳と優雅に揺れる尻尾を羨ましく思った。しかし、なまえの顔は曇る。
「そんなことない。大切な人を守れなかった。だから守れるように強くならないといけない」
「なまえは信じているんだね、二十年後の約束を」
なまえは大きく頷いた。それならば、とヤマトはなまえに強い眼差しを向ける。
「ここにいた方が良い。カイドウは一度も君に暴力を振るったことがないんだろう⁉︎僕は実の息子だっていうのによく殴られるんだ‼︎下手に外に出るよりここにいた方が良い‼︎」
「確かにそうかもしれないけれど…」
「それに…君がいてくれたら僕も頑張れる‼︎今は耐えどきだ‼︎二十年後の為に今はお互い強くなろう‼︎」
「ヤマト…」
「僕はオヤジに…カイドウに屈しない‼︎」
——屈しない‼︎
その言葉になまえは、はっ、と目を見開いた。あの燃え上がる城の中でトキに放った言葉だ。なまえは拳を強く握る。
幼心で考えた。今、上手いこと脱走できても外の世界で一人で生きることになる。強くなるどころか弱っていくばかりだ。ならば、ここで二十年の時を待つ事が正しい選択なのかもしれない。敵陣に身を置くのは耐え難い。けれど、いずれ迎える夜明けの時に———
自分は光月家を守る立場として役を果たせる。
「うん‼︎わたくしも決して屈しない…‼︎」
よし、とヤマトはなまえを抱き上げた。突然の事に、わっ、と驚くなまえをヤマトは、つい嬉しくて、とそっと下ろす。なまえは上目遣いにヤマトを見上げた。
「ねぇヤマト、また会える…?」
「もちろん‼︎オヤジの事だから簡単には合わせてもらえないだろうけど、タイミングを見て会おう‼︎」
良かった、と笑顔をこぼすなまえにヤマトは少しばかり動揺した。初めて感じる妙な胸騒ぎに今後も悩まされることを今のヤマトはまだ知らない——
「わたくし、強くなりたい。だからもう脱走はしない。ここに残る」
どういった心境の変化かとキングは首を捻る。珍しく捜索に手こずったかと思えば、それはなまえが部屋に戻っていたからであった。
「とんだ心境の変化だ」
「外に出ても死ぬだけ。あなたのお世話になる事にしたの」
キングは子供ながらに出した決断に今後を憂う必要はないだろうと結論づける。
もし己やカイドウに歯向かうようであれば、その時はその息の根を止める覚悟はできていた。