帰りを待つ君に

 自分が持つには似つかわしくない。
そう想いながらもクザンは、左手に花束を大事に持っていた。花屋の店主がにこやかな表情で選んだ花々は、ひと月ぶりに帰る自宅で待つ、彼女の機嫌をとる為の贈り物だ。

 クザンは照りつく太陽の光に目を細め下を向いた。それでも宝石を散りばめた様に輝きを見せるコンクリートに仕方なしにもう一度顔を上げる。それなりに勾配の強い坂を長い足を無心に動かして上っていた為か、もう自宅前の階段が目の前だった。その階段の先、鮮やかな青い玄関扉の前でなまえは、先ほど届いたばかりの新聞を広げ、熱心に目を注いでいた。
 クザンはひと月前と何の変りない彼女の姿に不思議とホッとした。そして一段一段と階段を上る。一段ごと、端に小さな植木鉢が置かれていた。目を引くマゼンタ色の花が咲いている。ひと月前にはなかったものだ。彼女はまだ熱心に新聞を見ている。
 何がそんなに彼女を釘付けにさせるのか、疑問に感じながら最後の一段を登り終えた時、目が合った。彼女は一瞬驚きながら煌びやかな黒い瞳を大きく見開くと云った。

「わっ、生きてたんだ」

 なまえが口にする冗談は毒が強かった。クザンは苦笑しながら頭を掻く。すると彼女は、ふふふ、と笑った。そして一言――

「おかえりなさい」

 黒目がちな瞳を細めて綻んだ。彼女の立ち姿や言葉、声色にクザンは"自宅に帰って来た"と実感した。

「ああ、ただいまァ」

 クザンは何の連絡もなしに家をあけた事に後ろめたさを感じたのか、彼女に返した笑みがぎこちなかった。しかし肝心のなまえは何の怒りも感じていない様子で「それ、お詫びの品かしら?」とクザンの左手に持つ花束を指さし、揚々とした口調で訊いた。クザンは彼女の言葉で自分が花束を持っていた事を思い出したかの様に咄嗟に花束を彼女の前に差し出した。

「あー、これで許して貰えれば」
「嫌よ」

 許してくれるだろう、と思っていたクザンは花束を差し出したまま突っ伏した。彼女の言葉に開いた口が塞がらない、という様な顔をして――しかしそれは彼女の笑いのツボを突いた。
 なまえは「冗談」と笑い交じりに囁いた。そして彼が差し出した花束に顔を寄せる。

「良い香り……クザンが選んだの?」
「いや……」

 小さな声で云うと、恰幅のよい花屋の店主のにこやかな顔が浮かぶ。

「そう」

 なまえは自分から聞いたにもかかわらずその答えがどちらでも良いかの様に興味なさげに呟いた。彼女のどちらでもない返事にクザンはいつも悩まされる。それを分かっていてか、なまえは言葉に詰まる彼がようやく一声上げようとするのと同時に言葉を紡いだ。

「次があるなら、貴方が選んだのをちょうだい?」

 先手を取られたクザンは頭を掻きながら、ああ、と返事した。彼の返事になまえは満足気に綻んだ。そして花束を手に取り「お腹、空いてるでしょう」と伺った。途端にクザンは空腹を感じた。彼の返事を訊く前に、作ってあるわ、となまえは踵を返した。
 鮮やかな青い扉を開き、彼女は家に入る。クザンも彼女の後につづいた。







 自宅の中もひと月前と何の変りも無かった。入ってすぐ、左の空間がリビングで三人掛けのソファとローテーブル、観葉植物が置かれている。その向かい、右側の空間にはダイニングテーブルがあり、主に二人の食事はここで摂る。さらに奥に進むとキッチンとバスルーム、階段があり、二階には寝室と書斎の二つの部屋――これがマリンフォードに住む海兵達の家族に与えられる家の一般的な間取りだ。

 クザンは手前の椅子を引き、腰を下ろす。目の前のテーブルの上にある積み重なった何部かの新聞紙の束に何気なく触れた。先ほど表で熱心に今朝の新聞に目を注いでいた彼女の姿が眼裏に浮かぶ。クザンは彼女が食事を持ってきた際訊いてみよう、と新聞紙の束を端に寄せた。

 彼女がキッチンから此方に向かって来る。どうぞ、とテーブルに置かれた一つのプレートには穀物、野菜、肉、卵、と栄養満点の彩りがあり、彼の食欲を掻き立てた。デミグラスソースをふんだんにかけたハンバーグの上に載る半熟の目玉焼き。その下に敷かれた白い米と一緒に彼は夢中になりながらもくもくと掻き込んだ。

「うん、美味い」

 久しく口にした温かい食事に自然と彼の口から称賛の声が零れる。なまえは、自分が作るご飯をこんなにも美味しそうに食べる人はこの人ぐらいしかいない、と頬張りすぎて膨れる彼の頬を愛おし気に見つめ、綻んだ。

 最後の一口を噛み終え、ごくんとそれを流し込んだ時――クザンは眼差しを一点に注いだ。

「この新聞の束…熱心にどうしちゃったのよ」

 クザンの問いになまえは、ああ、と気の抜けた返事をした。少し間を置いてから彼女は云った。

「貴方が何の連絡もなしに家を出てから今日までの新聞よ」

 なまえはテーブルに肘を掛け、クザンを上目遣いに見つめた。クザンは彼女の眼差しに毎度感心してしまう。彼女の黒艶やかな瞳には芯があった。まるで新世界の海を易々と突き進む女船長の様な好奇心に満ち溢れた挑戦的なたくましい目をしている。
途端に彼女の目線が新聞紙の束に注いだ。

「クザンの訃報が出ていないか、チェックしていたの」

 彼女の言葉が想定外だった為か、クザンは直ぐに言葉が出なかった。彼の脳裏には彼女が熱心に新聞紙を覗く姿が浮かんだ。それが今日一日に留まらず、昨日、一昨日、随分と前からだという事――自分の事を想ってだという事に――。

「ここ一週間、貴方の事が心配で寝不足」

 なまえはそう口にしながらテーブル下にあるゴミ箱へ新聞紙の束を落とした。ボコッと重い音が響く。途端にクザンはニヤリと笑った。

「素直で可愛いじゃないの」

 片肘をついて上目遣いに彼女の顔を覗く。彼の眼差しに彼女もまた、同じく感心してしまう。表向きは"ダラけきった正義"を掲げながら、大将の威厳が全く感じられない程に怠けているのに、奥底では誰よりも図太い正義が根を張っていて、それがしっかりとその眼差しに写しだされているのだ。
 なまえの頬がほんのりとピンク色に染まった。あまり表に感情を出すことが無い彼女が、こうもあからさまに反応すると可愛い以外のなんでもない。クザンの心を鷲掴みにするのだ。彼女は自分の頬がピンク色に染まっているのを知ってか知らずか平然を装いながら、んふふ、と笑った。そして椅子に腰かけてようやく同じくらいの目線になる彼に向かい合った。

「生きて、無事帰って来てくれて良かった…」

 なまえはクザンに抱き着き、耳元で囁いた。とても頼りない弱々しい声だった。クザンはどうしようもなく彼女を愛おしく感じた。彼女の艶やかな髪を撫でながら、彼はひと月分の愛をぶつけたい衝動に駆られた。自分勝手だろうか、と彼女の気持ちを按じたが、どうやらその心配はご無用な様で、彼女は一言「二階に行きたい」とクザンの首にぎゅっと腕を回した。彼は楽々と彼女を抱き上げる。
 二階へゆく途中、窓から見えた青青しい空と海。海は太陽の光で煌びやかさを増していた。


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