アイスエイジ

 クザンは目の前の山積みの書類から目を逸らす為にアイマスクを目元に落とそうとした。しかしそれは扉向こうから聞こえてくる声の主、思わぬ訪問者によって必要がなくなった。

「あらら、何かのサプライズ?」

 クザンのあからさまな語尾の昂る声調になまえは、ふふ、と笑う。なまえ自身も職務中に彼と接触できた事が嬉しいのだ。

「おつるさんからの伝言です。さっさと書類仕事を片付けなさい、との事です」

 クザンは察したように、はは、と笑う。

「さすが気が利くね。ダラけた俺に特効薬かい」
「そういうことです」
「まぁいい、ちょいとお茶にしようじゃないの」

 せっかく愛おしい彼女が来てくれたのだ、仕事をするのは勿体ない。クザンはソファに腰掛け、トントンと腿を叩き、なまえにそこに座るよう促す。なまえは自宅でのいつもの光景に、羞恥を感じながらも座った。クザンは心底満足げに「かわいいね」となまえの髪を撫でる。

「近々、昇級試験の為の船上演習があるんです」
「ああ、そんなのがあったな」

 クザンは記憶を辿る様に視線を仰ぐ。海賊との戦闘時を想定し、引火した船からの脱出を試みるという演習であり、兵士たちの団結力を測る。竜骨がやられてしまい、もう走ることのできない船を用いる為、埋葬の意も込めた、海軍らしい訓練だ。

「頑張ったご褒美、何が欲しいの」

 思わぬ言葉になまえは一瞬目を見開く。なまえは今日までクザンから心が満たされるほどに多くの喜びを貰っている。しかし、ひとつだけ我が儘を言っても良いか、となまえは少し考えてから口にした。

「一緒に旅行とか」

 しばしの沈黙に、少し困らせてしまったか、となまえは眉尻を下げた。しかし、その様な憂いは即座に晴れた。

「いいねェ、海凍らせて好きなところまで走るかい」
「素敵!」

 クザンの提案になまえはきらきらと目を輝かせる。そんな彼女にクザンは自然と笑みが溢れた。

「そういえば私、クザンの能力見たことないかも」
「んまぁ、そんな無闇に使うものじゃないからね」

 演習訓練に備えて張り詰めていた心も、終えた後の楽しみを想像するとなまえの胸は昂った。それはクザンも同じだ。珍しく書類仕事を終わらせたい気持ちに駆られる。

「私は昇級試験を、クザンは書類仕事を」

 頑張ろう、となまえは両手に拳を作る。そんな彼女を愛おしげに見つめるクザン。

「では早速…!」

 そう言ってクザンから身を離そうとするなまえをこのまま帰してしまうのは勿体無い気がした。

「ああ、だがその前に…」
「んっ…ぁ」

 クザンはなまえを引き寄せ、首筋をぺろりと舐める。不意打ちになまえは腰が抜けそうになった。

「だめです!こんなところで…」

 神聖なるマリンフォードで許される行為ではないとなまえはクザンの胸を押す。しかし、クザンは、くく、と喉を鳴らしながら「ここ俺専用の部屋だぜ?」となまえの唇に噛み付いた。








「おお、やってるね」

 クザンは少し離れたところで停船する船で引火し始めた船をまるで花火を見るかの様に眺めていた。
 通常、大将がこの様な演出に顔を出すことはない。引火した船から脱出し、停船した船に乗り込む海兵たちは皆、息を呑むばかりだ。

 次々と逃げ込む海兵の中からクザンはなまえを探した。しかし、なかなか見当たらない。ただでさえ目立つ存在であるのに未だに船にいない事実はどういうわけか——クザンの不吉な直感がはたらく。

「ちょっとあんちゃん」
「大将青キジ…!」

 クザンの大きな影が二人の海兵に被さる。以前、演習場でなまえに悪態をついていた二人だ。先程まで談笑していた二人の表情が恐怖で引き攣る。

「何か知ってそうだな」

二人の動揺した瞳はクザンの不吉を確信へと変えた。







 薄らと煙が漂い始めた。けほけほと身体が叫びを上げている。なまえは縛られた手足を必死に解きほぐそうとした。しかし、彼らの余程の憎悪が込められた頑丈な縛りはびくともしない。悔しさが込み上げてくる。

『船と共に沈みな』

 彼らがなまえに放った言葉。なまえは歯を食いしばった。しかし、脳裏には次々と浴びせられた言葉が過ぎる。

『大将青キジに付け込んだんだろ?その身体使って』

 大粒の涙が溢れる。

「わたしは…そんな悪意をもって彼に触れてない…」

 燃え上がる火が目前に迫っている。扉が橙色の炎にのまれた。その光景にクザンと約束した未来が叶わないことを暗示した。その瞬間とてつもなく死を恐怖した。

「クザン…」

 途端に生温かな風が吹く。それは瞬時にひんやりとした風に変わり、冷気に身が包まれた。薄れゆく意識の中、脳裏に響く足音。怒りとも哀しみとも取れる様々な感情を抱いた気配が近づいてくる。しかし、なまえはその心根にあたたかさを感じた。クザンの胸に抱かれた時の温もりを。

「なまえ…」

 彼はいつもより一段と冷えた身体をしている。今のなまえにはとても心地良い接触だった。なまえは案じる彼を安心させる為に微笑した。

「あなただと、分かった」

 クザンの頬を撫でる彼女の手は小さく頼りない。

「ありがとう」

 クザンはなまえを抱き上げた。この手に彼女を抱いて、ようやく自身のこみ上げる感情も鎮火したような気がする。彼女の呼吸は安定している。命に別状はないと分かっているものの、彼女を危険晒した海兵二人を懲戒処分だけではとても気が晴れそうにない。

「ここまで大将の権力に感謝する事ねぇな」

 クザンは氷壁を長い脚で蹴り上げた。甲板に出ると船は至るところに氷柱をはり、あたり一面氷に覆われている。今に沈みそうな船が氷山の一角の様に佇んでいた。

「あーちょいとやりすぎたか」

 クザンはなまえを大事に抱え、停船している船に飛び乗った。多くの海兵を呆然とさせた。自分たちに集まる視線に、あらら、と苦笑する。

「救護班、この子頼むよ」

 クザンは救護班に彼女を託した。そして、辺りを見回す。二人の海兵が目に入ると、彼らに向かって脚を運ぶ。

「ちょっといいかい」

 身が凍る風が吹き抜けた。









「あんたが書類を片すなんて、珍しいことだ」

 久しく机の上が見えた、と言っても良いほどに書類が一枚もない机上につるは感心する。クザンは、初めからそうであったかのような素振りでまどろんでいた。

 あの日の事件を記録するかのように凍りついた船は未だあのままだ。クザンとしては早急に溶け沈んでしまえば良いと思っている。サカズキに、一発落とせないか、と軽く頼んでみたものの眉間に皺が寄るだけで、自然に溶けるのを待つしかなかった。

「訓練中に二人の兵士が行方不明になったそうじゃないか」
「さぁ、知らねぇな」
「まぁ私の知ったことでもないがね」

 クザンはアイマスクを晒し、意味深な笑みを浮かべた。つるは彼が関与しているかどうかなど疑うわけでもない。しかし、長年クザンを見てきたからこそ、その笑みが何を意味するかも想像できる。つるは、なまえがとんでもない奴に好かれてしまった、と吐息ついた。

「あの子は元気かい」
「ああ、まぁ少しばかり課題ができたがな」
「見聞色の気があるそうじゃないか」

 つるは以前、なまえの見舞いに行った際、彼女から直接それを聞いていた。人の足音や心の声を過敏に聞き取ってしまうと。

「あんたが目覚めさせた様なものだろう」
「違いねぇな」

 船内を捜索する際になまえの気配を探知するためにクザンは相当神経を尖らせた。その影響で目覚めたのではないかと仮説立てている。
 いずれにせよ中将階級になれば使いこなさなければならないものだ。

「クザン、あの子を救ってくれてありがとう」
「まぁ、大切なひとだからね。命かけても守るさ」
 
 熱いことだね、とつるは笑った。




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