これはなんの音なんだろう。おれはいままで一度も聴いたことがない。未来への憂いなど想像したこともない母親に優しくだきしめられている幼児が鳴らす安堵の音。そんな音がおれの中から聴こえてくるなんて考えたこともなかった。この麗らかな春の陽だまりのような温もりがどうしてか、甲高く怒声を発する大人よりも恐ろしく思えて目にいっぱい涙をためてしまう。
「……私がこわい?」
「…………こわ、い……」
「……そっか。……怖かったら、泣いてもいい……泣いていいんだよ」
怖かったら泣いてもいい。いやだ。泣きたくない。そんなことをしたらきっとこの大海原に波打つ漣のように穏やかな音色を奏でる人だって幻滅して離れていってしまうんだろう。早く、おれから離れて欲しい。嘘だ、おれを見捨てないで。二律背反。素直に甘えられる現実が受け入れられないおれと、この女性ならもしかしたらずっとそばにいて抱きしめてくれるかもしれないと期待するおれが頭の中で言い争いを始める。言い表せない苦しみが棘の付いた荊となり高鳴る心臓に雁字搦めに巻きついて息をするのさえ億劫だ。
「……私も、ずっと泣くのが怖かった」
「……おねえさん、も……」
「……うん。……いまもね、泣いたらだめなんじゃないかって思うことがある。泣くなんて私が弱さを克服できてないせいだって、……本当は強くなりたいのに。せめて人の前に立つ私は誰よりも強くありたいのにって、そう言ったら……おれがいるときならいくらでも弱くていいって許してくれた人がいたの」
目尻をゆるやかに下げて置いてけぼりにされた子供のように笑う女性の目にもほんの少しだけ涙が浮かんでいる。必死に泣きたいのを我慢してる音もする。ど、どうしよう。可愛い女の子は泣いてる顔より笑っている顔の方が似合うのに、彼女に笑ってと言うのだけはどうしてもいけない気がして、あたふたと混乱していたら元々脆い涙袋はいつしか決壊してしまっていた。
「う、う……もう、いやだ……やさしくしないでくれよお……!」
「……うん」
「こわいよ。こわいんだ……!おねえさんのおとがやさしすぎてこわい……!おれいまはなにももってないんだって……!わたせるおかねもおかしもこものも、なにもないのに、こんなやさしくしてもらえていいわけがないんだよ……!」
「……なにもいらない。なにかが欲しくて人に優しくするわけじゃない。……人に優しくすることに理由なんかいらないと思うから、私は私がやりたいようにやってる。あなたを抱き締めたいからこうしているだけ」
女性に優しくされるには対価がいる。それは例えば両手に余るほどの金銭であったり、口に含むと甘くてほっぺたが緩むようなお菓子であったり、見ているだけで周りが華やぐような小物であったりする。それを対価として渡したときだけは、おれみたいな親無しの薄汚い子供にも少しだけ心が満たされるような賛美歌が聴こえる気がしていた。気がしていただけでその音が向けられているのはおれに対してじゃないことなんて、誰に言われなくてもわかってたんだよ。それでもよかったんだ。ぜんぶおれの自己満足だったから、自分のした行動に見返りを求めちゃいけない。そう思って生きてきたよ。そう思わなきゃやってられなかった。なのに、どうして今更おれの前にこんなにも優しい人が現れてしまうんだ。ひしと立派な洋服にしがみ付いて聞くに耐えない嗚咽を零す自分の背中が、ゆっくり撫で摩られると重ねて泣き声が大きくなってしまう。
「う、ううう……!うああああっ……!」
「……よしよし、その調子その調子。……小さい頃から泣くのを我慢してたら、大人になると誰の前でも泣けなくなる。……泣くことは悪いことじゃない。自分の中に溜め込んだ感情を吐き出す大切な手段だから、誰に気兼ねする必要もない」
そんな風に言われたら輪をかけて声も涙も激流のように溢れるのに。おれの頭を撫でながら身の丈には到底合わない包容力の音をこれでもかと言わんばかりに発揮して抱擁する女性は、こつりとおでこを合わせて見たこともないほど幸せそうに唇を緩め、小さな春を見つけたみたいに微笑んで、ずうっとずうっとおれのそばに佇んでいてくれた。もし、もしおれみたいな人間にも家族を作ることが許されるなら、こんな風に弱さを許してくれる女の子と一緒になりたい。
春の陽だまりのように穏やかで、全てを受け入れる海のように優しくて、いつだって小さな子供のように泣くことが赦される世界が欲しいんだ。
そんな子の為なら、すぐに挫けて同い年の子に揶揄されるほど弱虫で意気地なしなおれでも、がくがく震える貧弱な脚を踏ん張れる気がするから。小刻みに震える指で街灯の無い暗闇のような羽織りを握りこみ、ぎゅうっとありったけの力で繫ぎ止める。火事場の馬鹿力とでも好きなように言えばいいだろ。こんな機会一生に一度あるか無いかなんだし、往生際が悪いと言われてもこのお姉さんにかじりついてやるからな。
「う、ううう……お、ねえさ……」
「……ん?」
「……おれと、けっこん、してください」
「…………」
一生懸命心を込めて目の前の女性に求婚の旨を伝えると、ぽかんと驚いたように目を見開いて口を何度か開け閉めする。だ、だめなのかな。おれみたいなのじゃやっぱり、幸せな家族を作るなんて高望みし過ぎてるのかもしれない。そう考えるとまた目尻に雫が溜まりに溜まってうるうると泣きべそをかいてしまう。
「……う、ううん……」
「うう……だ、だめ……?」
「だめではない。ないけど……他にもっといい子がいると思う」
「いや、いないから!いま目の前にいるおねえさんこそおれにとってはいっとういい人だよ!ねえねえおねがい、おれと結婚しよう?いまはお姉さんよりも小さいだろうけど、精一杯稼ぐから絶対に苦労はさせないし、他の子によそ見とかもしないから!おれは好きな子一筋なので浮気は男の甲斐性とかそんな風に考えたりもしないので!お願いだよお、おれと結婚してえ!」
「こんなにも小さいのに将来への展望が明確すぎる。きっとあなたなら素敵な女性に出逢えと思う。だからなおのこと自分をそんなに安売りしちゃいけない」
「ちょっと嘘でしょ?!嘘すぎじゃない!?自分を安売りとか一切してないってえ!こんな優しい音をさせてる女の子生まれてはじめて出逢えたの!おれとしてはもうその音をずっとそばで聴かせてくれるだけでいいから結婚したいのに!……むう、そんなに言うならこうしたらいいんだろ!」
お姉さんのもっちりとしたほっぺたに手を当てて体当たりするように唇をぶつける。柔らかな唇同士が触れ合うと完熟しかけた蜜柑みたいに甘酸っぱくて芳醇な味がした。途端にどくんと心の臓が脈を打つよう高鳴り、幼かったはずの四肢が元に戻る感覚がする。
ああ、ちょっと惜しかったなぁ。
小さな我妻善逸だって、きみが初めての恋だったのに。でもさ、どっちにしろ冬ちゃんはおれのハートを鷲掴みにした時点で、幸せな家族になると言う夢に組み込まれてしまったから。ずうっと、ずうっとおれのそばで幸福になる未来しか約束されてないんだよな。
「ーーー子供の姿がだめだって言うなら、こっちのおれは好きなだけ冬ちゃんに求婚するよ」
不意を突かれて奪われてしまった唇を両手で抑え、ほっぺを淡い桃色に染めあげる仕草の可愛さたるや、それはまるで恋など知りもしない初心な少女のようで、おれはゆるりと目を細め抱えきれないほどの好意が視覚で見てとれるくらいの笑顔を浮かべてしまう。おれみたいなどうしようもない男を虜にした責任をとって、互いの命が共に果てるまでそばにいておくれ。先の見えない恋に落っこちた哀れな男の不屈の精神ってやつに、いつかきみが根負けしてくれることをいまかいまかと待ちわびてやまないんだろう。
/tonner/novel/1/?index=1
フォスチア