なにも分からない。呼吸音すら聞こえない。今日相手をした鬼から放たれた術を避けきれなかった隊士を庇い、首を切ったはいいものの。数時間はなんの支障もなかったし、隊士はものすごく後悔した様子で何度も謝罪してきたからこれで私になにか起こると隊士自身が倒れてしまいそうだったので、なんの異常も感じていませんというように振舞っていた。
加えて蝶屋敷にも行かず放置していたら、突然聴覚に異常が生じた。いつもなら聞こえてくるはずの足音や人の声がぷつりと糸が切れたかのような感覚に襲われた瞬間消え去ったのだ。丁度人混みを歩いていたから、大勢の人に危うく何度もぶつかりかけ、これはさすがにまずいと思い足早に路地裏に入る。
はあ、と溜息をついてもそれすら音として認識できない。これは重症だな。自己判断で蝶屋敷に行かなかったと言ったら、蟲柱は静かに怒るだろうということがわかりきっていたからあまりそちらに行くのは気が進まない。けれど聴覚が機能していないせいか平衡感覚に狂いが生じているのも事実で。このままいけばこの場で倒れてしまうだろうと言うのも分かり切っていた。
口元に指を添えて指笛を鳴らす。そうすると牛乳のように真っ白な烏が私の肩に乗った。真っ赤な瞳が無邪気にこちらを見上げる。白梅。私の鎹烏だ。彼女の喉を数回優しく撫でたあと、懐から救急の札を取り出しその脚に括り付ける。私のやりたいことを無言で理解したようで、烏はそのままなにも言わずに飛び去っていった。
そして路地裏の壁に背中から寄りかかる。頭がくらくらして一向に視界が定まらない。自分の感覚が思い通りにならないのは非常に気持ち悪いし、心なしか吐き気すら覚える。もしかしなくてもこれは倒れる前兆だろう。鎹烏に隠を呼びにいってもらったのは我ながらいい判断だったなとぼんやり考えながら、ずるりと地面に尻餅をついてその場で意識を失った。
「イヤアアアアアア!!!!もう!勘弁してよ!なんでおれに任務なんか持ってくんの!!おれは弱いんだって何度もいってるでしょ?!……チュン太郎、その呆れた目やめてくんない?おれの心にくるものがあるから。お願い!やめてぇ!ちゃんと行くよぉ!行くからさぁ?!?!」
炭治郎も伊之助もいない単独任務に弱々なおれを一人で駆り出すなんて、鬼殺隊は本当に人材不足なんだなと重いため息すら吐きたい気分なのに。この小さな相棒は毎度毎度おれに厳しすぎやしないだろうか。ちゅんちゅんと鳴きながら鎹……烏っていっていいの、お前。雀なの?どっち?まあ、どっちでもいいけどさ。
今日も催促された任務に行ったところ、恐ろしい形相をした鬼に睨まれ恐怖で意識が途切れた。ああ、今日こそおれは死ぬんだな。じいちゃん先立つ不孝をお許しください。あと、冬ちゃんに一目でいいから会いたかった。機能回復訓練のあとめっきり顔を出さなくなってしまった、愛しの彼女に想いを馳せる。せっかく善って名前で呼んでもらえるようになったのになぁ。このままいけば冬ちゃんとの幸せな結婚生活も夢じゃなかったはずなのに。
あれ、なんか、そう思ったら次第に腹がたってきた。
「なに!なんなのよもう!なんで鬼におれの幸せな夢を邪魔されないといけないわけぇ!おれは可愛い可愛いお嫁さんもらってその子を世界で一番幸せにすんの!あわよくばその子は冬ちゃんがいいんだけどね!!あの子の花嫁衣装とか絶対絵になるでしょ!!そしておれはそれを隣で見ていたいわけで!!!健康男児のささやかな夢を邪魔しないでよね!!……って、あれ?」
意識を失う前は眼前にいたはずの鬼がいなくなってる。きょろきょろと辺りを見回して、ふと思いついたように背後を振り向くと首の無い鬼の身体が倒れ込んでいた。それにぞわぞわと背筋に悪寒が走って、大声で泣き叫んでしまう。
「キイヤアアアアアアアア!!!???なにこれ、なにこれ!?なんで鬼の首がなくなってんのお!?もしかしてまた運良くおれを助けてくれた人がいたの!?!?そういうこと!?」
本日もおれ、我妻善逸は誰かに助けられて命からがら生き残ったようです。
気がすむまでその場で泣き叫んだ後、ゆっくり帰路につく。今回の任務は近場だったし、蝶屋敷に徒歩で戻れるよなと思ったおれの判断は間違ってなかったはずだけど。のんびり歩きながら蝶屋敷の門前に着くとなにやらいつもより騒がしい。隊士が倒れたと大声で叫ぶ、かんかんと空き缶を蹴ったような焦った音を鳴らした隠が、背中に黒色の雪輪模様の羽織を着た女の子を背負っている。
あれ、ちょっと待ってその子まさか。
「ーーー冬ちゃん、?」
冬ちゃんは強いから、任務で倒れることなんてそうそうなかったのに。おれに会いにきてくれたときもけろっとした無表情で、かすり傷を負った姿さえ一度もお目にかかったことがない。なのに今回は隠に背負われるほど重症なの?それに冬ちゃんが意識を保ってる音がしてないじゃん。そんなに今回の鬼は手強かったっていうのか。額には冷や汗が流れて背筋がぴきりと凍りつくようだった。今日のうちに心臓がまろび出そうなことが何度も起こるなんて、おれは想像もしていなかった。
目の前にいる蟲柱が異様な威圧感を放っている。相変わらず術のせいで耳は機能していないのでお小言を頂くことはなかったものの、にっこりと恐ろしい笑顔で寒菊さん、何か言うことは?と叱責されている気配を察知した私は潔く頭を下げて謝罪した。
「ーーーーー」
はぁ、と長い溜息をつく仕草をして、問診表になにかを書き連ねた彼女は、今日は大人しくベッドの上で横になっているように。と書かれた紙を私の前に差し出した。さすがにこの状況で次の任務なんて言い出したらベッドに縄でくくりつけられる予感もしていたので、大人しくそれに従うことにする。
ふっとなにかを感じ取ったように顔を上げた蟲柱は扉に何事か声をかける。そして開いた扉に視線をやると、最近は会っていなかった我妻善逸が目に大粒の涙を溜めて、いますぐにでも泣きだしそうな表情でそこに立っていた。
え、なんでそんなに泣きそうな顔をしているの。もしかして怪我をしたとか?それなら早く治療を受けるべきでは。彼と蟲柱、交互に視線を移しおろおろと落ち着かない様子でいると、どうしようもない子供を見るかのような目で私の方を見やった。そんなに目で主張されても私は読心術を会得しているわけではないので、その心を組みとることはできないのだが。そのまま一言二言話した様子を見せた彼女は、彼の肩をぽんぽんと叩いてその場から立ち去ってしまった。
耳が機能していない今の状況でも善がなにも喋っていないことがわかるほどには、唇が全く動いていない。一度会えば必ずと言っていいほど口数が増える彼がこれほどまでに衝撃を受けた出来事は何だったのだろう。首を傾げて考え込んでいると、いつの間にやらベッドに近付いて来ていた彼は縋り付くように私の右手をこわごわと取った。
それに思わずびくりと身体を揺らす。彼の手がかなり熱を持っている。視覚と触覚しか頼りにできるものがない今、それらが過敏に働きすぎていた。どきりと跳ねた心臓を左手で抑えながらも彼の行動をなにも言わずに見守っていると、その手を額に当ててほろり、ほろり、と静かに涙を流していた。
「ー、ーーー……ーーーーー、ーーーーー、ーーーーーーーーーーー……ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー……ーー、ーー、ーーーー……!」
彼が辛そうに何事かを呟くけれど、何を言っているのか私には全然分からない。ただ、その姿は見ているだけで心がたまらなく苦しくなるほどに悲痛なものだった。
冬ちゃんが無事だと確認されるまで病室は出入り厳禁になってしまったから、悪いことだと自覚はしつつも話し声が聴こえる範囲で待機していた。そうしたら何故か冬ちゃんの透き通った可愛らしい声は聴こえてこないし、しのぶさんは大声で怒りたいのを必死に我慢してる音がするしで。
おれもうその時点で泣き叫びたかったのに、まさか血鬼術にかかって耳が聴こえなくなってしまったなんて嘘でしょ?嘘すぎじゃない?冬ちゃんおれより全然強いはずでしょ?どうしてそんな無茶なことしたの。すぐさま肩を掴んで問い質したくなる衝動を診察が終わるまでなんとか抑えて病室のドアをノックすると、どうぞという涼しげな声が聴こえてゆっくりと扉を開いた。
「善逸くん、……もしかしなくても盗み聞きしてました?」
「……すみません、冬ちゃんが心配で……」
両目に溜まった涙を堪えて、ばつの悪い顔をしながらも俯くと、しのぶさんは慈愛を込めた音を鳴らしながら優しく微笑んだ。よくないことをしてるのはわかってたし、それに叱責があるのも承知の上だ。それでも冬ちゃんのことがどうしようもなく心配だったから、行動することを抑えられなかったんだよ。心の中で言い訳をしながらも後ろめたくて目をそらすと、こちらに歩み寄る彼女にぽんぽんとあやすように肩を叩かれる。
「……もう診察は終わりましたし、わたしがこれ以上何かを言うよりは善逸くんがそういう顔をしていた方が寒菊さんにはこたえるかもしれませんね。……なのでお任せしちゃいます」
「えっ、……おれを、処分しなくていいんですか」
「君がここにきたのは診察が終わった後、どのみち症状は明るみにされたでしょうから構いません。女の子の秘密を暴こうとしたのは感心しませんが、……今回は見逃すことにしましょうか」
そのまま背を向けてがちゃりと扉を閉めて出て行ってしまった。ベッドの背にその細身を預けながらおれを見て心配そうな音を鳴らす冬ちゃんを遣る瀬無い思いで見つめる。
ねえ、そうやってさ、おれのことを心配するひまがあるなら、お願いだから自分のことを大事にしてよ。なんでそんなに人のことばかり気にするの、しまいには泣くよ?おれ。……もう、泣いてるけどさ。
ベッドに歩み寄りながら、なにを言えばこの自分を大事にしてくれない子に届くのだろうと頭を悩ませるけれど、そもそもいまの冬ちゃんは耳が聴こえない。だからおれがここで何を言ったところで、冬ちゃんには一切伝わらないんだな。そう思ったらもう悔しくて悔しくてさ、涙がぼろぼろこぼれ落ちそうだった。それでもおれのこの涙がきみの硝子のような心に少しでも届くのならば。そう思って冬ちゃんの右手を縋り付くように取って、額に当てた。さながら神さまに祈りを捧げる信者のような有様だったよ。
神さま、神さまか。そんなものがこの世に存在するのなら、どうか冬ちゃんにもう少しだけでいいから優しくしてやってよ。
「う、ううう……ふゆちゃん、ふゆちゃん、おれかなり心配したよお……なんで耳が聞こえなくなるほど無茶なことしたの……ねえ、ねえ、なんでぇ……!」
懸命に耐え続けた涙をぼろぼろ流して、駄々っ子のように泣き言をいうと。とっても困ったような顔をして、あたふたとした様子でおれを見るこの子が、言葉を発した瞬間に何も言わず悲しげに唇を引き結ぶ。彼女が言葉を受け取る音が少しもしない。
ああ、やっぱりおれのいうことがわからないんだ。おれときみはこんなに近くにいるのに、どうしてこんなにも遠く感じてしまうんだろうな。
耳が聴こえなくなるのって、人間にとって大事な意思疎通の手段を奪われたようなもんじゃんか。今回は時間が経てば治るからよかったかもしれない。いや、おれにとっては微塵も良くないけど。でも、本当にこれから一生耳が聴こえなくなったらどうするつもりだったんだよ。
えぐえぐと泣き声をあげながら心がずきずき痛んで何も言えずにいると、冬ちゃんはおれの髪の毛をそうっと思いやるように梳いた。違う。違うんだよ、そうじゃない。きみがいま心を配るべき存在は自分自身なの。
キッと目を怒らせて彼女を見上げると、口をぱくぱくと動かしていた。……同じ言葉を何度も続けてるみたいだ。
ご、め、ん……ね。
……ごめんね。
おれの心にひんやりとした冷たい氷を当てられたみたいだった。やっと伝わったんだと思ったんだよ。おれの心配が冬ちゃんに伝わってくれたんだって。またぼろぼろ泣いちゃうくらいに嬉しかったのに。
ーーー冬ちゃんからする音は、おれだけを心の底から心配する音しかさせていなかった。
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フォスチア