誰も知らない祝福のこと

私は、ひょんなことで恐らくトリップ、、、、とやらを仕出かしてしまった人間だ。
しかも、映画とかでもよく題材になる時間じゃなくて、多分異世界、、、という、ファンタジー要素マシマシな奴。

更にいうとお風呂中に世界線的なあれそれを飛び越えてしまったようで。
本当に冗談抜きのすっぽんぽん状態で見知らぬお風呂の浴槽に落ちた、、、た時は吃驚したし、なんならそのまま溺れもした。
人間って、吃驚し過ぎて思考が止まると浅いお風呂でも器用に溺れちゃうらしい。
もの凄い初体験である。

私にとって幸運だったのは、そのお風呂の──いや、家の家主がとても良い人だったこと。
だって、普通は自分の家の浴槽の中で溺れて死にかけている裸の女を助けたりしないだろうし、と言うか普通はその場で通報ものだし。

彼──安吾さんは、そりゃもう、最初は私に対して驚いて、多分しっかり警戒もして。
色んな方法で私の事を調べて、だけど何一つ身元確認の出来ない私に対してきっと沢山怪しんで疑っても、それでも追い出したりはしなかった。

それはきっと、私がこの世界を知れば知るほど怖くなって、ひっそりとビビってたことに気付いてたからで。
それはきっと、そもそも彼が、安吾さんがとても優しいから。

その内安吾さんは、彼の上司だという人に会わせてくれて。
今後も帰れなかった場合を想定して、どうやってこの世界で生きていくかの道筋を一緒に立ててくれたりもした。

今は色々と政治情勢?が安定していないから、安定するまでは安吾さんと種田さんのお世話になって。
そうして、色々とゴタゴタ、、、、が収まったら、二人の働いている所でお手伝いをしなさいと。
そのまま大人になってこの世界の事をもっといっぱい知ったら、また別の所に行ってもいいし、そこに居続けてもいいと。

──この世界は、私の世界よりもだいぶ危ないのだ。

一見すれば私の世界と同じ形をしているように見えるのに、触れた中身が全く違う。
日常の裏側で簡単に人は死んで、それが当たり前すぎてニュースにもならずに幾つもの生死がひっそりと葬り去られていく。

それはなぜか?
それは、私がいた世界よりも簡単に銃火器が手に入ってしまうからで。
それは、私が居た世界にはないものが、この世界には蔓延っているから。

──"異能"。
超能力みたいな、限られた人が持ってる不思議な力。
安吾さん達のお仕事はそれを管理して取り仕切ることだって言っていたけど、それはやっぱりとても大変みたいで。

私は、来た場所からなるべく離れない方がいいからと、一番最初に落ちた浴槽のあるお家でお世話になっているのだけど。
間隔を空けてここに帰ってくる安吾さんは、どうにも日に日に疲れ果てているというか──いやうん。ぼろ雑巾みたい。

だってほら、今も。

目の前には、ソファーでぐったりと寝そべっている安吾さん。
一番最初に出会った頃はこんな姿想像も出来ないほどきちんとしてたけど、ここ最近はもうずっとこんな感じだ。
ボロボロになって帰ってきて、ゾンビみたいにソファーの上で暫く動かなくなってしまうのである。

安吾さんは基本的に連絡を取ってこないというか、痕跡を残さないため?に連絡を取れないようにしていて。
だからいつここに帰ってくるのかわからないから、基本的にご飯は二人分用意しつつも、作っておくのは軽くだけ。
だって最近、安吾さん飲み会が多いみたい。

「……温かいお味噌汁飲みます?」
「……あぁ、頂きます……。お腹はいっぱいなんですけれど、変に、部分的に空いてるんですよね……」

──別腹みたいな?
お酒飲んだことないからその感覚はわからないなぁと思いつつ、キッチンに戻ってコンロに火を点ける。

今日は柔らかく似た里芋のお味噌汁。
味付けも薄味にしてたから、お酒で疲れた胃にもきっと優しいだろう。
ついでになにか口にすると意外とそのまま他のものも食べたがるから、お茶碗の準備もしておく。
おかずは……うん、昨日の残りの方が胃に優しそうかも。

ふつふつと煮立ったお鍋の火を止めて、漆のお椀にとろりとした味噌汁を注いでいく。
それと一緒に箸置きとお箸も持っていって、安吾さんの定位置の席へと設置して。
未だにぐったりとソファーに埋もれている安吾さんをちらりと見て、どうしたもんかと思わず苦笑いを浮かべてしまう。

「起きれます?」
「…………起きます」

──あ、眉間にシワ寄ってる。
ぐぐっと深く寄るシワに、本当にお疲れだなぁと重いながらも近づけば。
安吾さんは重たそうに間蓋を持ち上げて、すん、とひとつ鼻を鳴らした。
そうして、掠れた声。

「……なんの味噌汁ですか?」
「里芋ですよ。柔らかい里芋と、その煮汁でお汁もとろっとしてます。味付けも薄めにしてるので飲みやすいと思います」
「……さといも……美味しそうですね」

ギシ、と音を立てて気怠そうにソファーから起き上がって。
安吾さんはそのまま、身体を重たそうに引き摺ってのろのろと食卓に着席した。
そうしてその手がお椀へと伸びたのを確認して、私はほうじ茶の準備をする。

なんというか、夜はほうじ茶の方が好きだったりする。
安吾さんはそうなのかわからないけど、今の所文句はなにも言われてないから多分大丈夫なんだろう。

とぽぽ、と二つの湯呑にお茶を注いで。
それをお盆に乗っけていけば、もぐもぐと咀嚼している安吾さんと目が合った。

それになんとなくへらりと笑えば。
安吾さんは安吾さんで、なにやら肩を弛めてふぅと息を吐くのだ。

「どうかしました?」
「いえ……瞳さんはいつも楽しそうだなと思いまして……。ほら、よく笑うでしょう」
「え〜? そうですかね?」

湯呑を食卓に置いて、安吾さんの向かいに座って。
そのまま思わずぺたりと頬っぺたに手を当ててつつ、そうかなぁと再度心の中で思いながらもそのまま指先でくいっと両の口端を上に持ち上げてみる。

そんなによく笑ってるかはわからないけど、でもまあ、安吾さんが言うなら多分そうで。
ふくれっ面のイメージよりもニコニコ笑ってるイメージの方がきっと、好印象だとも思うし。

「じゃあ、綺麗に笑う練習しなきゃですね。知ってます? 口角を上げるだけで気持ちが明るくなって、免疫? も上昇するんですよ。昨日テレビで言ってたんです」
「へぇ」
「安吾さんも笑いましょうよ。口角にっと上げるだけでいいんですよ。ほらお手軽だし」
「お手軽って。ふふ、いや、僕はいいですよ」

そう言いながら、困ったように眉を下げる安吾さんに。
別に口角上げるだけなのに、とむしろその頬っぺた持ち上げてしまおうかと企んでいれば。

多分そんな私の思考回路を察したのだろう。
私が望んでいるのとは違う──つまり苦笑いを浮かべて、安吾さんは私にこう言うのだ。

「では、僕の分も貴方が笑っておいて下さい」
「え?」
「笑うのにだって体力を消費しますからね。貴方の有り余る元気で僕の免疫とやらを上げて下さい」

──それは、有りなのかな?
というか、それはなんか色々と違うのでは?と、思うんだけど。
でもまあ、なんか納得してるっぽいしいっか、なんて。

思って、私は熱いほうじ茶を啜るのだ。




──どうすればいいのか、わからない。

心臓が、鼓動が、はやい。
そうして、思わず唾を飲み込んだ喉は、大袈裟なくらい大きな音でごくりと鳴ってしまって。
なんかもう、何もかもがいっぱいいっぱいだ。

だけどそれも仕方なくて。
いやというか、なにがどうなっているのかよくわからなくて。

──なぜか、今。
私は安吾さんに、抱きしめられているのである。

「あ、あんご、さ」

ギシギシと、背骨が軋む程強い力。
正直息をするのも苦しくて、その腕を弛めて欲しいと思うけれど。
でも、どうにも──いや、どう声を掛ければいいのかわからない。
だって。だって、なぜなら。

「…………」

──泣いてる。
強張る背中に、震える呼吸。
安吾さんは何故か今、私を抱きしめて声もなく泣いているのだ。
そう、男の人が、大人が、私に抱き付いて泣いている。

──なんでこうなったんだっけ?
ぐるぐるこんがらがる頭を、それでも必死に動かしていく。

そうだ。今日はもう遅くって、きっと、安吾さんは今日は帰ってこないと思って。
だけど玄関から音がしたから、安吾さんが帰って来たことに気づいて。
それでお米を研いでいた手を止めて、安吾さんを出迎えにリビングを出ようとしたら、やっぱりそこには安吾さんが居て。

そうして、そうだ。
安吾さんはなんだか、酷く思いつめたような──ううん違う。
なぜか、私と目が合った瞬間に、くしゃりと顔を歪めたのだ。

それで──それで。
私がなにかを言う前に、私の身体は、安吾さんに抱きしめられ、て。

──でも、なんで?
なんで、安吾さんは泣いてるんだろう。
状況を思い返してみても、心当たりがなさ過ぎて全く理由がわからない。

ギシギシと身体は軋むけど、痛いけど。
でもそれ以上に、こんなにも動揺している安吾さんが、心配で仕方ないのだ。

──待って、頑張って考えて、私。
呆然とされるが儘に抱きしめられながらも、そう自分に問いかけていく。

だってここには私しかいないのだ。
私と、安吾さんしかいないのだから。
だから今、安吾さんを慰められるのは、私だけで。

──最近の安吾さんに、なにか変なところはなかっただろうか。
いつも通り忙しそうで、中々帰ってこなくて──いや、最近はむしろ殆どここには帰って来てなかった。
本人からも、暫くここに戻ってこれないかもって、言われていて。

「…………」

ふっふっと、知らず知らず内に呼吸が浅くなっていく。
自分でも気付かないほど、私はもしかしたら今、焦っているのかもしれない。

──忙しいのかなと、思ってた。
お仕事が大変なんだろうなって。
じゃあ、お仕事で何かあったのだろうか。

──でも、それで泣く?
そう浮かんだ考えを、他でもない自分自身で否定する。
だって大人の、成人した男の人が、お仕事の事で年下の女に泣き縋ったりするだろうか。

特に安吾さんなんてしっかりしていて、多分私の前ではちゃんとしようとしていて。
だからこそ、お仕事関係でこんな風に──まるで、助けを求めるみたいに泣くだなんて、あり得ないとすら思ってしまうのだ。

──ほか、他は、なんだろう。
ぐるぐると、思考が絡まる。
そうこうしている内にも上から覆いかぶさられる重みに耐えきれなくて、ずるずると、私の身体は安吾さんごと床に座り込んでしまった。

固いフローリングの床は、ひんやりと冷たい。
そうして安吾さんの身体もビックリするほど冷えていた。
だからこれ以上冷さない為にもここに座らせたくないと思うけど、でも、動かすことも出来なくて。

なにか、ないだろうか。
強張る思考で、それでも考えていく。
私でもわかる心当たりは、なにか。
動かない安吾さんを動かせる、なにかの言葉は。
こんなにも安吾さんを動揺させる、なにか、なにかの心当たりは──。

「──………、……おとも、だち……なにかあったの……?」
「………!」

絞り出した言葉。
それはもう、一種の賭けのようなものだった。

最近、いや、ここに来れなくなると告げる前に。
安吾さんは一度だけ、楽しそうにお友達の事を私に話してくれたことがある。

年下の子と、年上の人。
一人は優秀だけど気まぐれで、一人は真面目だけどどこかズレていて。
だけど一緒に話すと楽しくて、面白くて。
まるで、学生にでもなったような気分だって、確か、言っていて。

──そうだ、でも、来なくなる前から、安吾さんは何か思い詰め始めていた。
触れてほしくなさそうだったから触れなかったけど、でも、あれがお友達に関係する事だったら?

安吾さんなら、きっと自分に関する事だったら、自分だけの事だったら問題が起きても上手く解消するだろう。
だって凄く器用で、頭がいいから。

だけどそれが出来なかったとしたら。
自分だけの事じゃなくて、どうする事も出来なかったとしたら。
なにかお友達たちに問題が起きていて、それで思い詰めていたとしたら。
──お友達を、助けられなかったと、したら。

わからない。
こんなの、ただの勘だ。

だけど、この世界は、私が居た世界よりも何倍も危ない。
日常の中に非日常が溶け込んでいて、ふと気が逸れただけで誰かが死んでしまう様な、死が直ぐ隣に寄り添っている世界なのだ。

特に、今ここヨコハマという街そのものが戦火の中にあって。
沢山の争いの導火線が、敷き詰められていて。

安吾さんは、怪我をしていない。
だけど、このどこか苦く鼻にツンとくる、鉄のような匂い。
花火とか、運動会で使うピストルとかで、嗅ぐ匂い。
これはもしかして──硝煙の、香り、なのでは。

「─────何故、彼等何かあったと、思うんですか」
「……」

やっと聞けた声は、酷く引き攣れていて、不安定なものだった。

か細くて、震えて、今にも掻き消えそうで。
絞り出す度に、ひくひくと安吾さんの喉が震えている。
私の身体は強く抱きしめられているから、その痙攣が身体に響いて、伝わってきて。
だから、だからこそ──わたしまで、こんなにも悲しくなってしまうのだろうか。

「何故、なぜ……僕ではなく、彼等に、何かがあったと、思うん、ですか」
「………だって、安吾さん……自分の事じゃ泣かないもん」

おずおずと、背中に腕を回していく。
どくどくと身体の中の心臓が邪魔で、煩い。
脈の、血潮の音が、まるで耳元で鳴って居るみたいに響き渡っているのだ。

──だけど、今は、やめてほしい。
今は、今だけは、少し大人しくしていて欲しい。
だって私の音が煩かったら、この人の声が聴こえなくなってしまうから。

安吾さんは、大人だ。
大人だけど、大人だから。
きっと今打ち明けてくれなかったら、もう二度と、私に助けを求めてくれなくなる。

「ねえ、全部じゃなくていい。全部じゃなくていいから……何があったのか、教えてほしい」
「………」
「前話してくれた人たちに、お友達に……何か、あったの……?」

思考が上手く回らなくて、ついでに舌まで縺れて、ちゃんと言葉を発せられてるかわからない。
だけど、それでも慰めてあげたくて。安吾さんの身体に回した手で優しく背中を撫でてあげたら、軋むほど強く抱きしめられていた力が、少しずつ弛んでいく。

途端にふ、と肺から呼吸がこぼれて、息がしやすくなる。
そうして腕ももっと動かしやすくなったから、そのまま背中と、あと頭に触れて優しく撫でてあげるのだ。

「……友達、、だなんて、名乗る資格は僕にはありませんよ………」
「……それは、なんで?」

後悔の滲む、何かを諦めたような声。
落ち込んでる。悲しんでる。それだけが、強く伝わってくる。

「裏切ったんです……。友人だと、信じて貰っていたのに……。僕は、組織を優先し、彼等を、彼を、一番最悪な形で裏切ってしまった」
「それは、……」

──これは、懺悔だ。
そう理解して、瞬いて、私は頭の中でその言葉を何度も噛み砕いていく。
何度も何度も形をなぞって、言葉の意味を読み取るのだ。

裏切ってしまって、その人はどうなっちゃったの、とか。
もう一人の人とは、どうなっているの、とか。
聞きたいけど、それを聞くのは、安吾さんの言葉を全部聞いた後だ。

「安吾さんは、どうしたいの? 仲直りしたい? それとも、謝りたい?」
「……仲直り処か、謝る事も、無理ですよ」

呼吸が揺れてる。
ゆっくりと背中を擦りながら、私はなるべく優しい声になる様に気を付けながら言葉を続けていく。

「じゃあ、私に何が出来ますか? 安吾さんは、私に、どうしてほしいの?」
「……どう、して…………?」

擦れた呟きと共に、また少し、腕の力が強くなる。
だけどそれは、最初の軋むような強さではない。
息を潜めて、じっとじっと安吾さんの反応を待つ。

──自分の気持ちなのに、わからないなんて。
この人は、一体どれだけ、一人で頑張って来たんだろう。
そう、呆然と思ってしまうのだ。

「──………赦さないでください」

そうして、やっと絞り出されたその声に。
だけど、返す言葉も思い浮かばなくて。
思わず息を呑みながら、一瞬、ほんの一瞬だけ、私は背中を撫でる手を止めてしまった。

「貴方は、僕を、どうか赦さないで下さい。覚えていて下さい。こんな惨い男が居るのだと、僕はこんなにも愚かな人間なのだと、瞳さんは、忘れないで下さい」

肩が冷たい。
こんなに喋れているのに、なのに泣いてる。
声を震わせている癖に、しゃくり上げる事さえしない。

──いや、違う。
きっと、やり方を知らないんだろう。
この人は、泣き声の上げ方すらわからないんだ。
そうやって育って、生きてきたのだ。

「お願いですから、僕を、赦さないで、」
「──……うん、許さない」

ツンと鼻の奥が痛くなる。
じわじわと目頭も熱くなって、だけど。
私が泣いちゃいけないと、そのまま込み上げてくる感情を、深く息を吸い込んでなんとか呑み込んでいく。

他に、なんて言えるだろうか。
この寂しい人に、他に、なんて言ってあげられるだろうか。

助けてあげたい。
傍に居て、守ってあげたい。
でも、どうすればいいのかわからない。

どうやったら、私は、この人のことを支えてあげられるんだろう。
どうやったら、この寂しい人に、寄り添えるんだろう。

「安吾さんがそれを望むなら、私は貴方のことを、一生ゆるしてあげない」

もしかしたら、違うかもしれない。
もしかしたら、安吾さんが望んでいるのはこんな言葉じゃないかもしれない。
でも、それでもと縋る様にぎゅっと抱きしめれば、同じ様に私の身体に回る腕に力が籠められる。

それだけで、たった、それだけで。
私がここに居る意味が、わかるような気がしてしまった。

いつか、帰れると思ってた。
いつか、帰ろうと思ってた。
だけどもう、きっと私は帰れない。

もうどこにも、行ったりしないのだ。


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