02
あれから数日、"また"は来ていない。それでも私の耳は、忍足くんの声に頗る反応するようになってしまっていた。近くに来ると声で分かるし、なんなら少し離れていても分かる。病気は確実に悪化していた。原因は明白だ。
ーーー今日はちゃんと、話してくれたなぁ
思い返すだけで身体が熱くなる、あの一言。あれはなんだったんだろう。私が忍足くんと話すのを避けたことなんて、"今日は"とわざわざ評されるほどあっただろうか。たしかに忍足くんの声が聞こえると思わずその場を立ち去りたくなったり、顔が火照っている気がして俯きがちになることは多々あるが、話しかけられて避けたことなどない。というより、話しかけられたのはあの日が初めてだ。
「…はぁ」
「どないしたん、ため息なんかついて」
「っ、!!?」
「危なっ!!」
突如耳元を襲った衝撃に、私は思わず飛び退いた。退いた先がブロック塀で、反った頭がぶつかりそうになったところを、また忍足くんが腕を引っ張って防いでくれた。
「ごめんなぁ、そない驚くと思わんくて」
「い、いや、私もごめんなさい、ありがとう…」
眼鏡の向こうで笑う目は、絶対に、私が驚くことを知っていた。
「おはよう、三上さん」
「…おはよう、忍足くん」
改まって挨拶してくれる忍足くんに、私は同じように返すしかなくて。加えて今から同じ場所へ向かうのに、わざわざ別れるのも不自然で。私達は並んで歩き出した。今日の一限目の話とか、先生の妙な癖の話とか、特になんてことない会話を交わしていると、私は自分たちに注がれる目線に気づいた。学校に近づくにつれて増えていく氷帝生、特に女の子が、私たちをチラチラと見ていて、中にはひそひそ話をする子達もいた。初めはなんだろうと首を傾げる思いだったが、ふと思い至った。
忍足くん、彼はモテる。今まで声ばかりに反応していて気づかなかったが、隣を歩く彼の顔はすごく整っているし、あの強豪テニス部のレギュラーで、かつ頭も良い。しかも関西弁というオプション付き。女子が放っておくはずがない。とすれば、隣を歩くあの地味女は誰だ、と言う話になっているのだろう。これは早々に離れないと、私の平和な生活が脅かされる事態に発展しかねない。
「あの、忍足く、」
「そういえばあの作者の新刊、今日発売やったよなぁ」
「え、そうだっけ!?」
先生に呼ばれてたとかなんとか、適当な理由をつけて離れようとした私の目論見は、忍足くんの一言で見事に吹っ飛んでいった。新刊情報はチェックしていたはずだったが、見落としていたらしい。忍足くんは作者さんのSNS画面を私に見せてくれた。
「正式な発売は明日やけど、夕方くらいには店に出るんと違う?」
「そうだね、駅前の本屋さんならありそう!」
幸い今日は部活がなく、すぐに帰れる日だ。どこかで少し時間を潰せば、おそらく夕方頃には店頭に並ぶはずだ。
「一緒に行かへん?」
「え?」
「本屋。俺もこの本ほしいし、今日部活休みやねん」
思わぬお誘いに驚く私に、忍足くんは「あかん?」と首を傾げる。そこにはいつものエロさなんてなくて、少し可愛さすらある。なんだそれ。反則ではなかろうか。そんなの、頷く以外の選択肢はないじゃないか。無言で頷いた私に、忍足くんは小さく「よっしゃ」と笑った。
いつの間にか到着した私の教室前で、半歩前を歩いていた忍足くんは私を振り向いた。
「ほんなら、ホームルーム終わったら教室行くし、待っとってな」
「うん」
「先行ったら泣くで、俺」
「え、泣くの?」
「おん、もう号泣や」
真面目そうな顔で冗談を言う忍足くんに、私は思わず笑ってしまった。今日のこの僅かな登校時間で、私は随分彼の声に慣れられた気がした。この低い声が少し心地よく感じられて、病気は治ったのかもとすら思った。
「ほな、帰りにな」
自分のクラスへと去っていく忍足くんに、軽く手を振って見送る。すると、一、二歩進んだところで忍足くんがくるりと振り向いて、なぁ、と私に呼びかけた。訳がわからず首を傾げる私に、彼はすっと私の耳元に口を寄せた。
「三上さん、俺の声好きやろ?」
気づいた時には、もう忍足くんは背中を向けていて、ひらひらと手を振っていた。私はその場に崩れ落ちそうなのをなんとか堪えて、火照った顔をなんとかしようと、女子トイレに急いだ。
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