10


「よかったな、長太郎。お前もう戻って来ねえかと思ったぜ」
「跡部さんのところでもテニスしてましたから‥」
「ちったあ頭冷えたか?」
「はは、まあ‥」
「またよろしく頼むぜ」

部活前、コートに集まりだしたテニス部員たち。
そこへ久々に顔を見せた鳳の背中をぽんと、慰めるように宍戸の日に焼けた手が押した。ダブルスを組んでいる仲間だ。突然いなくなって突然帰ってきた相手を受け入れてもらえる方が幸福である。
鳳は和やかな、申し訳なさそうな笑みを返した。
それをじっと見ていたのは日吉だった。その視線に気づいた鳳が不思議そうに首を傾げ、日吉を見遣る。
日吉も、久しぶりだね。迷惑かけてごめんね。そんなことを穏やかそうな口ぶりで言って。

「お前‥」
「どうかしたの、日吉」
「無駄だったな。お前、何も変わっていないだろう」
「‥俺が?」
「跡部さんは身内に甘いから気付かなくても、俺の目まで誤魔化せると思うなよ。お前はまだおかしいままだ」

日吉は体を僅かに揺らしながら、かすかに強張った顔をする。それに鳳が少し表情の変えた。
めったに見せないほの暗い笑みを浮かべ、反対側に首を傾げた。わざとらしく。
日吉は自身の背筋に伝った悪寒に気づき、警戒心を強める。

「じゃあ、日吉はさ。どんな状態なら普通だと思う?」
「少なからず、中学の時のお前は、そんな状態じゃなかった」
「俺は中学のときからずっとおかしいままだよ」

無意識に人の背筋を震わせる、鬱蒼とした暗い瞳。テニスをするときとも、仲間内で話しているときとも違う目だ。
鳳は苗字について語るとき、ときたまこんな顔をする。その目の裏に宿るものは一体何なのか。

苗字についてさして知っているわけではない。日吉が唯一印象に残っているのは、彼女の青白い病人のような顔だけだ。
彼女の何がそんなにも鳳を執着させ、おかしくさせているのか、日吉には理解できなかった。
日吉にとっての普通とは、ドラマにありそうなありきたりな恋愛模様でしかない。

「日吉、名前さんはこんな俺でもいいって言ってくれたんだ。受け入れてくれた。だからこれが俺たちの普通だ」
「............」
「邪魔、しないで」

邪魔したら-------小さく動いた唇。吐き出された白い息のの行方を、日吉は追うことが出来なかった。







久しぶりの部活も終わり、だるさを抱えた体でしゃがみ込む。
そしてリュックの中からイヤホンを取り出していたときだった。

「鳳〜ひさしぶりだね〜元気だった〜?」
「ジロー先輩」

鳳の背中に芥川が乗る。ずっしりとした重みに鳳は苦笑した。鈍い光の金髪がふわふわと首元をくすぐる。
芥川は遠慮なくその大きな背に体重をかけた。

「おかえりー。彼女とは仲直りしたのー?」
「お騒がせしてすみません」
「いーのいーの。というか、俺はよく知らないしね〜」

飄々とそう言ってのけた先輩。本当に何も知らないのだろう、気の抜けた顔。
そんな芥川をさり気なく背中から落とし、鳳は立ち上がる。また乗られたりしないよう、すぐにリュックを背負った。

「鳳〜痛いよ〜。先輩なんだから優しくしてくれてもいいのに」

地面に尻もちをつきながら芥川は幼げな様子で、唇をすこし尖らせた。

「すみません、俺帰らないと」
「そんな急ぎの用事〜?また明日ね〜」

ふあ、と欠伸をこぼした芥川に会釈だけ返し、鳳はその場を足早に立ち去った。
イヤホンを耳に差し込み、スマホと接続する。音量を最大まで上げて、漏れ聞こえる音たちを聞きやすくした。
薄らと聞こえてくる声や物音。それを聞きながら、鳳はまたほの暗く微笑んだ。







生徒会室から出てきたばかりの忍足侑士は、女子生徒の物憂げな顔を見ていた。
彼女は廊下の窓際に立ちながら、闇に沈みゆくテニスコートを見下ろしている。
しばらくすると、その生徒ははっとした顔でこちらに気が付き、少々動揺したようなしぐさを見せた。瞳が大きく揺れている。
忍足はゆっくりとその人物に近寄った。

「お嬢ちゃん、名前ちゃんやん。ここんとこ大変やったなあ」
「あ、いえ。そんな。忍足、先輩」
「大層なことやったと思うで。堪忍な、鳳の携帯見てしもうたんや」

忍足が見たのは鳳から苗字へ送られていた毎日の大量のメッセージ。跡部が呆れたように、そしてどうしようもないと頭を掻きむしりながら忍足にも見るよう、押し付けてきたものだった。

そして極め付けには、好きだとか、そういった感情では許されないほどの盗撮盗聴履歴。間違いなく、真っ黒の犯罪だった。
思い出しただけでも顔を顰めてしまう。

「少しは前より体調ましになったか?気持ち悪くなってへんか」
「おかげ、さまで。悪くありません」
「なんかあったらすぐに俺達に言うんやで。俺は可愛い女の子の味方やからなあ」

軽薄におどけて、大阪にいる従弟の女受けのよさを思い出しながら笑ってみせると、苗字は苦笑した。
そこへ足早に姿を見せたのは鳳本人だ。走ってきたのか、すこし呼吸が乱れている。
そして彼は苗字をしばらく会っていなかった恋人のように情熱的に引き寄せ、彼女の頭頂部にキスを落とした。

「忍足さん、お久しぶりです。今日戻ってきました。ご迷惑をおかけしました。」
「さっきお嬢ちゃんしか見えてへんかったやろ、お前」
「いえ、そんなことは。忍足さんは跡部さんの手伝いですか」
「そうや。部活の時間も削られてあほらしいったらないわ」

鳳は以前見せていたような、穏やかで優しげな彼のトレードマークに等しい表情で首を傾げて微笑む。

跡部に拘束された当初の鳳はひどく荒れていた。苛烈で、深い闇のような目をしていた。食事もとらず、何故名前と会わせてくれないのかとそれしか口にできない鸚鵡のように繰り返していた。
しかしそれも一時のことで、反省したのかおとなしくなるとテニスと勉強に明け暮れ、跡部が拘束を解除したという経緯がある。

「これから帰るんやろ。気を付けて帰るんやで。お嬢ちゃんのことちゃんと送ったり」
「当然ですよ」

鳳がいこうと苗字の手を引くと、苗字はこくりと頷いた。その彼女の目が一瞬、妙に光を閉ざしているように見えて、忍足は目を眇めた。

「....どないしたん」
「忍足先輩、お先に失礼します」

彼女の人形のようにも見える目が弓月形に変形し、忍足に向かって軽く頭を下げてくる。
忍足は闇に消えていく二人の姿をただ見送った。鳳の大きな手は、ほっそりとした苗字の手首に回り、きつく握りしめている。

鳳のことはほとんど跡部に任せてしまった。宍戸や日吉が心配したように、時には怒るように近況を聞いても跡部は自分が部長であるからと一人鳳の監督をした。ただでさえ責任感が強く、一人で物事を背負いがちな男だ。忍足でさえたまに鳳に会う程度で、仲間の事だったにも関わらず対処を跡部に任せきりだった自覚はある。
跡部は身内に甘い男だ。鳳は本当に変わったのだろうか。加減というものを認識できる男になったのだろうか。相手に苛烈すぎる視線を向けてしまう、それをセーブすることをきちんと自覚した上で、苗字との交際を続けることを希望したと聞いたはずだった----------。鳳本人には知らせていないが、受診させていた精神科の医師にも太鼓判を押されたとも聞いている。

気のせいだろうと首を振りながらも、窓の光を反射した苗字の首元の十字のネックレスの残像が、頭の隅に焼き付いていた。


前へ次へ