僕にも煩悩くらいある
突然だけど、私の師匠は顔がいい。とにかく顔がいい。私はそんな師匠の顔を何故か見ることができない。いや、正確には目を合わせることができないのだ。
『はぁっ!!』
「まだまだ隙があります。常に相手の動きを冷静に見なさい。」
『んぐっ…!!』
お腹に一撃をくらい、私は倒れた。まだまだ師匠には敵わない。悔しいけれど、その悔しさは自分の糧になっていた。いつか師匠を超える武道家になること。それが私の夢だった。
「大丈夫ですか?」
『はい、大丈夫です。』
師匠が手を差し出してくれたので、私は甘えて彼の手を握り立ち上がる。師匠に触れることは出来るのに、どうして顔を見ることができないのろうか。それが自分でも理解出来なかった。パッと顔を上げて、師匠の顔を見てみるとばちりと目が合う。が、一瞬で限界を迎えすぐに目をそらしてしまった。失礼なことをしているのは重々承知だ。どうにか克服しないといけない。
「………、さぁ、修行はこれくらいにして夕飯にしましょう。」
『はい師匠。ありがとうございました。準備しますね。』
私はすぐに着替えて夕飯の準備をした。夕飯の準備をしていると水浴びをした師匠が戻ってきた。
「いい香りがしますね。」
後ろから耳元で囁かれて、思わず一歩横にずれた。感じ悪かったかな。でもそんな至近距離で囁かなくてもいいじゃないか。ああ、雑念ばかりが私を埋め尽くしている。
『座っててください、今持って行きますから、』
「自分の分は自分で持って行きますよ。」
師匠はいい人だ。私のことをコキ使わないし、優しくしてくれる。とてもすごい人なのに、いつも謙虚で穏やかだ。師匠が怒るところを見たことがない。
『師匠、先食べててください。私水浴びしてから食べるので。』
私は逃げるように、外へ出て近くの湖へと向かった。湖には月が映っていて、とても綺麗だ。誰もいないことを確認し、私はぱさりと服を脱ぐ。木の枝に着替えをかけて、ゆっくりと湖へ入った。
師匠のことを考えると胸が苦しくなることがある。良くしてもらってるのに、私はいつまでもまっすぐ彼の目を見ることができない。それが情けなくてたまらない。きっと雑念があるからだ。まだまだ修行が足りないのだろう。もっと修行をすれば、師匠をまっすぐ見ることができるのだろうか。
「おい見ろよ、こんなところで水浴びしてる女がいるぞ!」
『!?』
しまった、考え事をしていて人の気配に気がつかなかった。陸の方を見てみれば何人かの男達がこちらを見て下品な目を向けている。私はバッと胸元を隠す。
「水浴びしてるなら俺達の体も綺麗にしてくれよ。」
「こっちに来いよ!たっぷり可愛がってやるからよぉ!」
『お前達は煩悩ばかりだな。水浴びをしたいなら滝に打たれなさい。そうすれば内に持つ煩悩も少しは晴れるだろう。』
「何わけわかんねぇこと言ってんだ!お前ら!捕まえろ!」
男達は私へと向かって歩いてくる。水の中は動きにくいし、きっと逃げることはできない。そして何も身につけていない私は戦うこともできないのだ。自業自得だ。雑念にまみれ、考え事をして人の気配に気付かなかったのは私の落ち度。私は諦めたように目を閉じた。
「うぎゃあ!!」
「あぐっ…!」
「ぎゃああ!!」
ドカッ、バキィッと、鈍い音が響き、男達は悲鳴をあげた。目を開けると、男達は全員倒れており、その真ん中には師匠が立っていた。
「彼女は、貴方達が触れていい者ではありません。」
『し、しょう…?』
師匠は男達を倒すと、次は私の方に向かってきた。なんだかその姿は怒っているようで、怖かった。待って、私は今裸で師匠の前に立てるような姿じゃないんだ。私は彼に背を向け、みっともない姿を見せないようにする。すると、突然体が温もりに包まれた。
『しっ、師匠!お体が濡れますよ!』
「黙りなさい。」
『っ、』
「何故私を呼ばないのですか。」
ぎゅう、と体を締め付けられた。その声は切なげで、震えているような気がした。
『それは…、』
口ごもると、師匠は私の体を無理矢理自身の方へと向かせた。月明かりに照らされた師匠の顔が、あまりにも綺麗で目を離せなくなった。だめ、見てはいけないのに。もう、目が離せない。
「久方ぶりにちゃんと目が合いましたね。貴女と目があったのは、初めて会った時以来です。」
『申し訳ありません…。』
「貴女が私を好いていないことは分かっています。それでもあのような場合は呼びなさい。」
『ちっ、違います…!好いていないのではありません!』
好いていないわけがない。私は怖かったんだ。こうして目を合わせればこの気持ちに気付いてしまうことが。煩悩にまみれているのは私だ。弟子としてそばに置いて頂いている身で師匠にこんな情を抱いてしまうなんて。
『好きなんです…っ、師匠としてではなく、貴方を1人の男の人として…っ、』
「!!」
『私を破門にしてください…っ!私はもう師匠の弟子失格です…!』
ぽろぽろと涙が頬を伝って、落ちていく。もっと師匠のそばにいたかった。でも、こんな気持ちでそばにいることなんて許されない。
「なまえ。」
『っ、』
「貴女が弟子失格なら、私も師匠失格です。」
『え…?』
「貴女が弟子入りした日から私はずっと貴女に惹かれていました。私も貴女を1人の女性として、愛しています。」
聞き間違いだろうか。私の耳はついに私の都合よく聞こえるようになったのか。ありえない、だって、師匠が私のことを好きなんて。
『し、ししょお…っ、』
「泣かないでくださいなまえ。それに、もう貴女の師匠ではありません。これからは、私の妻として、そばにいてください。」
師匠は私の頬に手を滑らせて、私の唇に自身の唇を重ねた。夢のような甘い口付けだった。
「風、と呼んでください。」
『風…さん、』
「さあ、そろそろ服を着てもらわなければ私も限界です。」
『え、』
「これでも、貴女に対しては煩悩まみれなんですよ。あまりにも無防備ですと、あっという間に食べてしまいますからね。」
にっこりと笑う師匠に、やっぱり師弟関係の方が良かったかな、と後悔したのはここだけの秘密だ。
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