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「加古さん、今なんて言いました?」
「だから、辞めちゃうのよ、なまえちゃん」

辞めるって、ボーダーをか。

「知らなかった?」と首を傾げて問われ、黙って頷く。
近頃任務で見かけないとは思っていたが、あれだけの大怪我だったから、大事を取って休んでいるのだとばかり。
学校でも、そんなことは一言も。

「意外ねぇ、三輪くんに話してないなんて。仲良しでしょ?」
「だから、別に仲は良く、」
「あら、泣いてるなまえちゃんとくっついて、二人してびしょ濡れで基地に来たって聞いたわよ?」

泣いた原因はたしかに俺かもしれないが、くっつくというか、ほとんど3週間寝たままだったなまえの脚がおぼつかなかったから支えになっていただけで(気力だけで学校の屋上まで来たらしい)、びしょ濡れだったのはあの雨だから当然だ。
基地に来たのだって、車を回してもらっている。

「……それで、なんで加古さんがなまえが辞めることを知ってるんですか」

逸れかけた話題を、元に戻す。

「本人がさっき、挨拶に来たのよ。ねえ二宮くん?」
「なんで俺に振る……まあ来たのは事実だ」

東さんも何やら書き仕事をしつつ「来た来た」と頷いている。
間が悪かった、その一言に尽きた。

「今ならまだ基地内にいるんじゃない?すぐ話を聞きたいなら、探してみたら?」

そう言う表情は、なぜか微笑み。
どうしても俺となまえの仲が気になって仕方ないのか、何なのか。
二宮さんはというと溜息をついて、戦闘記録の映像を見る作業に戻り。
東さんは時計をたしかめて「時間に余裕はあるぞ」と、こちらもなぜか微笑みつつ一言。

「……行って、きます」

入ってきたばかりの隊室を、後にした。
とはいえ、居場所の見当などつかない。
いつも見かけるときは、隊室か宿泊区画の近辺だった。
適当にラウンジでも回れば、そのうち見つかるだろうか。

「あ、三輪くんー」

探すまでもなく、背後から当の本人の声がした。

「さっき隊室にいなかったから、探してたの」

立ち止まった俺に、駆け寄ってくるなまえ。
あれ以来、いつでもあの笑顔を浮かべることはなくなった。
いつも纏っていた危うさも、薄れたような気がする。

「……辞める、らしいな」
「あ、聞いたんだ」

案外、軽い返事だった。
きっと悩んで決めただろうから、てっきりもっと重く切り出すとばかり。

「三輪くんは知ってるでしょ? 私が戦ってた理由」

もうそれは、過去形になったのか。
戦っていた理由、端的に言えば、傷ついて死ぬこと。

「無くなっちゃったから、それ。街の防衛とか、元からそんな優等生なこと考えてなかったし」

理由を無くさせたほとんど張本人の前で、それを語るか。
なまえに皮肉のつもりはないようで、頬を引きつらせた俺を不思議そうに見ているが。

「これから、どうするんだ」

気になることを、尋ねてみる。
ボーダーを辞めれば、自力での収入はなくなる。
どこか、頼れる先でも出来たのだろうか。

「とりあえず、三門高専への進学を目標に学業しつつ、本部に住み込みで、開発室で見習いさせてもらうの」

そうか、と返しかけて、あまりの引っ掛かりの多さに踏みとどまる。
三門高専への進学、これは置いておくとして。
本部への住み込みは、ボーダー内の人間かそのごく近しい親族にしか認められていない。
もとの家が家だ、何かの特例措置でも出たのだろうか?
それにしたって、開発室で見習いとはどういうことだ。

「なまえ、ボーダーを辞めるんじゃなかったのか?」
「……あれ、東さん達からそう聞いた?」

お互い何か勘違いしているような、噛み合わない、妙な沈黙が流れる。
よくよく思い出せば……確かに誰も、"ボーダーを"辞めるとは言わなかった。
要するに、俺の早とちりだ。

「……戦闘員を、辞めるってことでいいのか」
「うん。扱いとしては、エンジニアに転属」

加古さんと東さんの微笑みの理由は、ここにあったのかもしれない。
思わず、手で額を押さえた。

「三輪くんどうしたの、うつむいて」
「うるさい、見るな」
「人が大泣きしたとこは見たくせに」
「それはお前の勝手だ!!」

けらけらと笑いながら調子を崩してくるなまえのことが、前と違った方向で苦手、かもしれない。

「なんで、転属しようと思ったんだ」

指の隙間から、ぼそりと問う。
答えは、随分曖昧に返ってきた。

「んー……なんだろうね、自分で戦う理由は無くしたけど、やっぱり近界民は嫌い、でも私には、それだけじゃ戦う理由には足りなくて。だったら、戦う理由がある人を手助けしたいかなって思ったの」

覗き込んで来る目が、電灯を跳ね返す。
その色は、夢で見た海の色から、いつの間にか変わっていたように見えて。
あの海から、俺の沈んでいくあの場所から、抜け出せたのなら。
それはきっと、歓迎すべきことで。

「そうか」

今度こそ、そう返した。
もう苦しめられなくてすむのならば、それがいい。
あの海に沈むのは、俺一人でいい。
夢の中で取った手は、いま離れた。
縛りつけてはならない、引き戻してはならないのだから。
だから、湧き上がった寂しさも、名残り惜しさも、なかったことにしてしまえ。
俺とともに、深く深く沈めてしまえ。

「ねえ、三輪くん」
「……なんだ」
「私は、三輪くんの助けにもなりたい」

冷えた指が、額に当てていた手に触れる。
この温度は、変わらない。

「三輪くんが、目的を果たせる日まで」

もう片方の手が、俺の手首を掴んだ。
手を下ろされて、視線が合う。
俺の掌を包むように、手が繋がれる。
俺の目の色が、なまえの目に映り込む。

「……やっぱりなまえのことは、嫌いだ」

せっかく人が、その手を離したままにしておこうと思っていたのに。
どこまでも思い通りにならなくて、それでいて、脳裏から消えてくれない。
沈め損なった思いが、手の力を強めた。

「嫌いでいいよ」

握り返された感覚が、指先に伝わってきた。
共に沈んでいくのか、前へ進んでいくのか。
そのどちらになるのかはわからないし、わからないままでよかった。
共感なのか、理解なのか、もっと別の何かなのか。
俺が抱く感情の正体さえも、わからなくたってよかった。
ただ、この手をもう一度離す気にはなれない。
それだけの事実で十分だった。

<本編・完>


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