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――化け物が出るから、あの山の森に近づいてはならないよ。
麓の村に生まれた子供は皆、そう言い聞かされる。
一度、母がまだ生きていた頃に、どんな化け物が住んでいるのか尋ねてみたことがあった。

「誰も出会ったことはないけれど……吸血鬼なんですって」
「どんな特徴があるの?」
「そうね、たしか」

――とても低く、恐ろしい声をしていて。

「き、君、大丈夫かい!?」

驚いたような、心配しているような、優しい声。
――牙のある口が耳まで裂けていて、目は赤色。
たしかに牙はあるけれど、普通の人間と同じ口。
瞳の色は、この闇の中でははっきりわからないけれど、赤色には見えない。

「吸血鬼……さま?」

噂とのあまりの乖離に、疑わずにはいられなかった。
もし失礼があってはならないから、指をついて頭を下げ、自分が生贄として捧げられたことを告げる。

「悪いけど、僕は人間の血はいらない」

どうして。
血に飢えた吸血鬼に生贄を捧げれば、村の日照りはおさまる。みんな助かるんだ。
そう聞かされて、たくさんのことを覚悟して、ここに来たのに。
村に戻ると良い、待ってる人がいるだろう、なんて言われたって。

「…………いないですよ。誰も、待ってなんかいない。一人ぼっちです」

両親は死んでしまった。親戚もいない。
私が捧げられるという話になったとき、村の誰一人として反対しなかった。
それはつまり、私がいなくなっても誰も困らないということ。

「だから、私を、殺してください」

答えは、ない。
その代わり、下げた頭に、何かが被せられた。
思わず体を起こすと、それがずるりと下がる。
なんとか掴んだのは、黒い布。

「……そのままじゃ、風邪をひく。この辺りの夜は、特に冷えるから」

吸血鬼様が、自分のマントを着せてくださったらしい。
たしかに私の服は、袖のない短いワンピースだけれど。

「あの、私の話」
「聞いてたよ。殺してくれって? 僕にはそんなことをする理由がない。君のほうに、死ぬ理由があったとしてもだ」
「理由……」

「そうだよ。生きる理由は、本当にないのかい? 」

吸血鬼様が、問う。
生きる理由。それを反芻したとたん、胸がつかえた。
死にたくない。まだ、やりたいことだってある。
でも、私が生きていていい理由はどこにもない。
私は生贄として、村のために死ぬべきで。
逃げるわけにはいかない。また他の誰かが、生贄にされてしまう。

「あ、その、泣かせるつもりは、なかったんだけど……すまない」

吸血鬼様が、うろたえる。
夜闇の黒と、吸血鬼様の服の白が、歪んで視界を埋め尽くした。

「私は、生きても、良いんですか」

ぱたぱたと、膝に乗せた拳に落ちる雫。

「そんなの、他人が決めることじゃないだろう? 君が生きていたいと思うなら、それで」

ずっと誰かの顔色をうかがってきた私には、考えもつかない言葉が投げかけられる。
そして吸血鬼様が、ためらいがちに私の手を取った。

「誰かから、生きていていい理由を貰いたいなら、僕らの城においで。僕らが、君の生きる理由を見つけよう」

――とっても残酷なの。人なんか簡単に殺してしまうのよ、その吸血鬼は。
母の声が、反響する。

「本当、ですか?」
「もちろん、君が良ければだけど……」

こんなに、優しいのに。
こんなに、あたたかい手をしているのに。
残酷だなんて、嘘だ。

「私を、連れて行ってください。お願いいたします、吸血鬼様」

かしずくように、頭を垂れた。

「吸血鬼様、は止めようか……これから一緒に暮らすわけだし。僕のことは、雨竜でいいよ。君の名前は?」
「なまえ、です」
「そうか、なまえさん、よろしくね」
「はい、雨竜様」

ほとんど習い性みたいに、様付けで呼ぶ。
雨竜様が、ほんの一瞬戸惑った顔になったけれど、君がそう呼びたいなら、と小さくうなずいた。


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