7 「ベクトルとか爆発すればいいのに」 物騒な呟きをもらしながら、数学のワークに沈むなまえ。 『数学がわからなすぎて死にそうです』とのメールを受けて、現在僕の指導の下、課題をこなしている最中だ。 「第一、空間ってなんなんですかね………そうだ、Z軸を破壊すれば私は2次元に行けますか!?」 「行けないからね?」 追い詰められているせいか、発言の奇妙さに磨きがかかっている気がするのは僕だけだろうか。 別に誰にも同意は求めないけれど。 「あぁ……もう嫌だぁー……」 「今日終わらせるって言ったじゃないか」 「前言撤回したいです……」 ノートには、数式と落書き。 その比率は、かなり贔屓目に見ても3:7。 僕が自分の課題に集中して少し目を離した隙に、何をしているんだか。 手元が見えない物の配置になっていたせいか、気づかなかった。 「こういう落書きのほうが上手く描ける現象ってなんなんですかねー……」 「肩に力が入ってないから、とか?」 いや、何を真面目に回答してるんだ僕は。 君が絵を描いているのを見るのは好きだけど、ここは心を鬼にして。 「なまえ? ちゃんと課題片付けないと、居残りとかで苦しんでも知らないよ?」 「う、」 「もう少しだろ、ね?」 はぁい、と拗ねたように返事を返すなまえ。 その声とは反して素直に、また問題を解きだした。 「会長ー……わかんないです」 ほどなくして、弱々しく助けが求められる。 「この、3番なんですけど」 「ん、ちょっと見せてごらん」 「はいぃ……」 餅が伸びたような謎の生物の横に書かれた証明に、ざっと目を通す。 「少しだけ途中式が違う。ここまでは合ってるよ」 全体の中間ほどの行を指さしながらノートを返せば、大きな目がそこから下の行を追い始めた。それから式を修正していく様子を、横で見守る。 「わかんなすぎて死にそう」と言っていた割には、手つきは鮮やかだ。 「っと、これで良いですかね?」 ペン先が止まって、顔が僕のほうに向いた。 その距離、実に10センチ。 うっかり身じろぎすれば、鼻先が触れそうな。 普段にない近さ、僕もなまえも動けなくなる。 「す、すみませんなんかすみません!!」 先に音をあげたのは、なまえのほうだった。 視線をノートに戻して、意味なくページを送る。 髪の隙間から見える耳は、真っ赤。 「嫌じゃないよ、僕のほうはね」 「わ、私も嫌じゃないんですよ!? でもその、えーと」 照れ隠しなのかなんなのか、今度はペンでノートをつつくなまえ。 まだらに水玉模様になっていく紙を眺めながら、言葉の先を促した。 「こんな近距離で会長を見ることってないから、なんと言いますか」 「恥ずかしい?」 「それもあるんですけど……ちょっとテンション上がりますね」 予想外すぎる返答に、思わず間のぬけた声が出る。 だから言いたくなかったとばかりに唇をとがらせたなまえが、続けて話す。 「学校じゃ遠くから見るばっかりで、それに身長差もあるから……き、キスされるときは、目閉じちゃうし。けど、今みたいにここまで近くに来られるのは私だけなのかなーって思うと……あの、もう説明いいですか!?」 うかがうように、目だけが僕を見た。 そこに映った僕は、いったいどんな顔をしていたんだろう。 すぐに逸らしてしまったから、わからない。 なまえに背を向けるような体勢になった僕の頬に、白い指先が触れる。 「会長、赤いですねー」 「なまえが悪い……」 「え、私ですか」 そうして自覚のないところも、またタチが悪い。 僕が彼女を、他とは違う特別な存在として扱っているのはたしかな事実。 でもそれを、改めて当の本人の口から自覚させられると、気恥ずかしくて仕方ない。 勿論、僕の気持ちが伝わっているとわかって嬉しい、というのもあるけれど。 「ここまで近くにいていいのは…いてほしいのは、なまえだけだよ」 頬をさわり続ける指をとって、そのまま手の甲に唇を落とす。 途端に、後ろのなまえの気配が変わった。 「君、仕掛けるのは得意だけど、仕掛けられるのは苦手みたいだね。知ってるけど」 「だ、誰が、自分の大好きな人が、こんな王子様みたいなことしてくれるなんて想定しますか!?」 「言い過ぎじゃないかそれは……」 「あの、勉強!! 続行するので手をお離しください!!」 言うが早いか、するりと手が引き抜かれる。 よほど余裕がないのか、気づいているか知らないけど、君が解こうとしているそのページはさっき終わらせた所だよ。 赤面させられた仕返しは無事成功したようで、思わず口角が上がった。 |