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「ベクトルとか爆発すればいいのに」
物騒な呟きをもらしながら、数学のワークに沈むなまえ。
『数学がわからなすぎて死にそうです』とのメールを受けて、現在僕の指導の下、課題をこなしている最中だ。
「第一、空間ってなんなんですかね………そうだ、Z軸を破壊すれば私は2次元に行けますか!?」
「行けないからね?」
追い詰められているせいか、発言の奇妙さに磨きがかかっている気がするのは僕だけだろうか。
別に誰にも同意は求めないけれど。
「あぁ……もう嫌だぁー……」
「今日終わらせるって言ったじゃないか」
「前言撤回したいです……」
ノートには、数式と落書き。
その比率は、かなり贔屓目に見ても3:7。
僕が自分の課題に集中して少し目を離した隙に、何をしているんだか。
手元が見えない物の配置になっていたせいか、気づかなかった。
「こういう落書きのほうが上手く描ける現象ってなんなんですかねー……」
「肩に力が入ってないから、とか?」
いや、何を真面目に回答してるんだ僕は。
君が絵を描いているのを見るのは好きだけど、ここは心を鬼にして。
「なまえ? ちゃんと課題片付けないと、居残りとかで苦しんでも知らないよ?」
「う、」
「もう少しだろ、ね?」
はぁい、と拗ねたように返事を返すなまえ。
その声とは反して素直に、また問題を解きだした。
「会長ー……わかんないです」
ほどなくして、弱々しく助けが求められる。
「この、3番なんですけど」
「ん、ちょっと見せてごらん」
「はいぃ……」
餅が伸びたような謎の生物の横に書かれた証明に、ざっと目を通す。
「少しだけ途中式が違う。ここまでは合ってるよ」
全体の中間ほどの行を指さしながらノートを返せば、大きな目がそこから下の行を追い始めた。それから式を修正していく様子を、横で見守る。
「わかんなすぎて死にそう」と言っていた割には、手つきは鮮やかだ。
「っと、これで良いですかね?」
ペン先が止まって、顔が僕のほうに向いた。
その距離、実に10センチ。
うっかり身じろぎすれば、鼻先が触れそうな。
普段にない近さ、僕もなまえも動けなくなる。
「す、すみませんなんかすみません!!」
先に音をあげたのは、なまえのほうだった。
視線をノートに戻して、意味なくページを送る。
髪の隙間から見える耳は、真っ赤。
「嫌じゃないよ、僕のほうはね」
「わ、私も嫌じゃないんですよ!? でもその、えーと」
照れ隠しなのかなんなのか、今度はペンでノートをつつくなまえ。
まだらに水玉模様になっていく紙を眺めながら、言葉の先を促した。
「こんな近距離で会長を見ることってないから、なんと言いますか」
「恥ずかしい?」
「それもあるんですけど……ちょっとテンション上がりますね」
予想外すぎる返答に、思わず間のぬけた声が出る。
だから言いたくなかったとばかりに唇をとがらせたなまえが、続けて話す。
「学校じゃ遠くから見るばっかりで、それに身長差もあるから……き、キスされるときは、目閉じちゃうし。けど、今みたいにここまで近くに来られるのは私だけなのかなーって思うと……あの、もう説明いいですか!?」
うかがうように、目だけが僕を見た。
そこに映った僕は、いったいどんな顔をしていたんだろう。
すぐに逸らしてしまったから、わからない。
なまえに背を向けるような体勢になった僕の頬に、白い指先が触れる。
「会長、赤いですねー」
「なまえが悪い……」
「え、私ですか」
そうして自覚のないところも、またタチが悪い。
僕が彼女を、他とは違う特別な存在として扱っているのはたしかな事実。
でもそれを、改めて当の本人の口から自覚させられると、気恥ずかしくて仕方ない。
勿論、僕の気持ちが伝わっているとわかって嬉しい、というのもあるけれど。
「ここまで近くにいていいのは…いてほしいのは、なまえだけだよ」
頬をさわり続ける指をとって、そのまま手の甲に唇を落とす。
途端に、後ろのなまえの気配が変わった。
「君、仕掛けるのは得意だけど、仕掛けられるのは苦手みたいだね。知ってるけど」
「だ、誰が、自分の大好きな人が、こんな王子様みたいなことしてくれるなんて想定しますか!?」
「言い過ぎじゃないかそれは……」
「あの、勉強!! 続行するので手をお離しください!!」
言うが早いか、するりと手が引き抜かれる。
よほど余裕がないのか、気づいているか知らないけど、君が解こうとしているそのページはさっき終わらせた所だよ。
赤面させられた仕返しは無事成功したようで、思わず口角が上がった。


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